ストレートチップ、プレーントゥ、ウィングチップ、モンクストラップ、ダブルモンク、ユーチップ、ローファー、タッセル、ヴァンプ、ビットシューズ、デッキシューズ、チャッカブーツ、サイドゴアブーツ、サイドエラスティックシューズ、 オパンケ、これは男のオーソドックスな革靴の種類である。
15種類、多いか少ないかは読み手の判断に任せるとして、この15種類の中で僅か7種類の革靴しか履いたことがない、尤もスエードを加味すれば話は変わるのだが。
その中で革靴をどれくらい履きつぶしてきただろうか、履いては履きつぶすの連続だった。
だがいつしか棄てることを止め、靴を修理することを知った。
修理して履くことに少なからず違和感があった、今にして思えばなんともったいないことをしてしまったかと悔いるばかりである。
靴は全人格を表すと言われるくらい、靴の存在意義は大きい。
”おしゃれは足下から”や”足下を見る”という慣用句があるが、こちらは富と権力のシンボルを謳ったもので、それには全く関心は傾かない。
シンボルとしての靴ではなくフォルムの美しさや、意匠を凝らした優雅な靴につい見ほれてしまう。
子どもの頃、玄関先に置いてある父親の革靴を眺めるのが好きだった。
また来客たちの靴であふれた風景にも心が動かされる、人が集うところにはえも言われぬ悦びの顔が靴の底から伝わってくる。
その磨かれた履き手の靴から人間性も微かに透けて見える世界に思いを馳せる、小さき子の想像の旅が始まるのである。
靴にまつわるエピソードは数多あるが、とりわけピカソの靴に例えた主義主張はアイロニカルで面白い。
Wikipedia(海外/ http://en.wikipedia.org/wiki/Pablo_Picasso)にはこのような文面が掲載されていた”私は共産党員で、私の絵は共産党員の絵だ。
仮に、私が靴屋だったとして、王党員でも共産党員でもそれ以外であっても、私の政治上の意見を示すために特別な方法で靴に釘を打つ必要があるとは思わない”と。
時に靴というものは思想性を胎む武器として使われるらしい、兎にも角にもピカソ隆盛の頃は何をするにも中傷や誹謗の類はいくつもあったのだろう、アートと政治の因果を靴になぞるとはいかにもピカソらしい。
数年前、靴職人にインタビューしたことがあった。
靴作りの本場イギリスで、唯一日本人の中で「ギルド・オブ・マスタークラフツメンツ」の称号をもらった山口千尋氏、氏はイギリスのトラディショナルな靴作りの製法”ハンドソーンウェルテット”と出会い、靴の基本を学んだ。
イギリスから帰国後、工房を立ち上げ、後進の指導にも力を注がんと靴作りの学校も作った、オーダーメイド靴の世界においての第一人者である。
愛用者たちは声を揃え、履いていて気持ちが良い、楽しい、足を守ってくれていると愛用者たちからの賛辞の声は止むことがない。
”靴を履いている瞬間は、裸足のときよりも気持ちが良いときがある。
言葉ではなかなか言い表せないが、自分に合う靴は自分を支えてくれる安心感がある”と、アルチザン山口は語った。
当初、靴作りはおしゃれのひとつとして考えていたが、歩き方を学ぶとその認識は一変し、体と健康の側面がいかに大切であるかが分かったのだという。
日本人が靴を履くようになって120年あまり、長い歴史とは言えない。
草鞋から靴への転換に日本人は相当手こずったと推測する、それまで指先が自由に動かせたものを覆い包んでしまうのだから。
最初に履いた人物はやはり坂本龍馬だろうか……さぞかし新しき物好きな侍だったのだろう。
山口氏が作る靴、それは美しいの一言に尽きる。
絵描きを目指していたが、皮が化ける(靴)ことのおもしろさに興味を持ち靴職人の道へ。
靴の制作工程を見ているとため息が出そうになる、非常に緻密な作業で身体が悲鳴を上げそうだ。
いくつもの段取りを経て完成までに1ヶ月を要するという、出来て2足が限界だと、その勲章は左右の指の変形が物語っていた。
イギリスで靴を誂えることをビスポークと言う、イタリアでは、ス・ミズーラ。
足に合う靴を作るため採寸は最低でも30分はかかってしまう、お客とのデザインの打合せをしながら細部を詰めていくのである。
そして、実物大の設計図を作成していく……木型を削るときの正確性は大工仕事に似ている、と思った。
木型は靴を作るのに最も神経を注がねばならない工程、木型の出来具合で靴の完成度が決まってしまうからだ。
近年、木の質がしだいに悪くなってきて変形が激しいのだという、ベストな木は桜や樫のタイプ、中でも最高はマホガニー。
だが1本で300万円もする、加えて保管に必要な部屋も必要のため、消費量からすると現実味がない、そんなことから木型も現在ではプラスティックへと変化してきている。
靴は食器のように道具だと山口氏は言う、”手入れ次第で、使って、履いて、しみやしわができてもそれでも愛着がわき本領を発揮するものだ”と。
食器のようだと山口氏は語っていたが、靴は人間そのものに思えた、生き方次第で人生も面白くなる、自身に愛着があれば無茶なことはしないだろう、まさに靴からその人自身が透けて見えてくる。