モネの絵がカイロスだった、西洋からの呪縛を解く

日本画にはあまり縁が無い、はるか遠い昔に竹橋で小野竹喬の個展を友人の美大生に案内され観たぐらいだ。

記憶はほとんど翳んでいるが、一点だけ色遣いの雅さに引き寄せられたものがあった。

確か”沼”というタイトルだったかと思う、今にも折れそうな細い柳の木が水面に映し出され、枝が幾重にも水面一杯に拡がっている、枝先には黄色の花が咲いていた。

沼に僅かにさざ波が漂う、水面は様々な色で混じり合いチェンバロを奏でるような色合いであった、老竹色、薄青、水浅黄色そして水色とパウル・クレーのような配色に息を呑んだ。

今にして思えば何故日本画を観に行ったのか釈然としない、そもそも日本画には関心はなく、足が向くのはコンテンポラリーアートが中心だった。

その日は、美大生が上野のある公募展に出品し、作品賞かなにかを受賞した。

絵描きの卵と付き合うと1日中美術館巡りを付き合わされ、多分その流れで竹橋へ行ったのだと思う。

そしていくつもの季節を経て、池に浮かぶ睡蓮の絵と出会った。

 

小野竹喬の繊細緻密の”沼”とは様相が違っていた、これが日本画なのかと疑いたくなるような色遣い、池は朱色に染まり蓮の葉は一色ではない、あらゆる色が重なり合って、緑青、金色、墨、紫みの深い赤、菜の花色、瑠璃紺等々がまばゆいほど散りばめられていた、まるでタブローを観るようだった。

それはクロード・モネの” 柳の小枝と睡蓮”の絵と重なる、しかしモネのような印象とは違う生々しさを感じたのである。

命が滾るような瞬間をひとつひとつ丁寧に描き、そしてその中には美の枯れさが盛り込まれ、さらに儚さも感じ取れるのだ。

画家は感情の真っ直中にいる、そう思った。

単に色を重ねたのではない、美しさの中に画鬼が潜んでいる、それも痛みを伴った色調のようだ。

6曲1隻の屏風には”夕映えの池-睡蓮序曲”の表題が付いていた。

その日本画家の名は”平松礼二(73)”、この絵を観るまでこの日本画家の名は知らなかった。

平松は17歳で日本画の世界を志し、50数年の画業の中で様々な賞を受賞してきたが、周囲が羨むほどの名声を博しながらもどこか満たされないものがあったという。

それは芸術家に限らずなにびとも何かしらにぶつかるものだ、そのしんどさとどのように向き合うか百点満点の回答は誰も持ってはいない。

答えの見つからない闇の中で、52歳になった平松はパリで個展を開くチャンスが巡ってきた。

個展の合間を抜け何気なく立ち寄ったオランジュリー美術館でクロード・モネの作品と出会う、平松にとってモネの絵がカイロスだった、つまり決定的出会いがそこで起きたのである。

長さ90メートルにも及ぶ睡蓮、モネが晩年に描いた作品に平松は目も心を奪われてしまったと言う、モネが10年間に渡り描き続けた作品だと言われている。

絵巻物を思わせるキャンバスに睡蓮が水面に浮かんでいる絵である、蓮のひとつひとつの表情に平松は心を揺さぶられた。

画集では観たことがあるが本物は未観、私事ながらいまだカイロスなるものと出会ったことがない。

少し話が逸れるが映画などのパブのためにCMで一般客からの”感動”コメントがよく流れる、それも大袈裟に涙を流してである。

あれほど気持ち悪いものはない、感動の安売りかと思いたくもなる。

それくらい近年、感動の押し売りが媒体を通じ垂れ流されると薄っぺらなものに見えてしまう、とにかく感動ものはいまでもゴメンだ。

さて本題だが、平松礼二はモネの睡蓮と出会い、日本を強く意識し思ったという。

日本人とは何か……何ものなのかと自問自答したと言う。

その背景には平松が育った風景が去来する、4歳で終戦を迎えた少年の目には焦土化した東京の風景しかなかった、そして高度成長と共に考え方も生活も一変し目まぐるしく変貌を遂げていく日本、そこに平松の画家としての疑問が沸々と湧いてくる、その疑問を解きたいと平松は思ったのだ。

そのひとつのテーマが”路”シリーズだった、その色調はけっして明るいものではない、増殖するコンクリートの建物、近未来と今を遠近法という技法を駆使し描いていった、西洋画に負けまいと平松は寝食を忘れて描き続けたのだった。

だがその切なる野望は無念さが残るだけで後味の悪いものに過ぎなかった、そして気付く……所詮無理なのだと、西洋画を日本の画材で追い越そうなどということは。

“いつも西洋画と日本画がせめぎ合っていた”と平松は言う。

モネがこよなく愛した日本の美の象徴、花鳥風月を、モネは自宅の庭に睡蓮の池を作り、そこから美意識を見出そうと睡蓮をモチーフに生涯を掛け描き続けた。

平松はモネから日本の美しさを教えてもらったのだ、西洋画にない花鳥風月や雪月花がモネの中にあるのか、寒気が走るような驚きがあったと平松は述懐している。

言葉に言い尽くせないほどに衝撃を受けた平松は、四季を通じて幾度も幾度もモネの記念館を訪れ、モネの神髄を吸い取るかのようにスケッチを描き始める。

パリと日本との逢瀬は4年も続いた、そしてようやく平松はこれまで解けなかった疑問に結着の時が訪れる、画家としての”目線”がくっきりと浮かび上がったのだ、それが”ジベルニー-モネの池・風音”

この絵は人々の目を釘付けにした、画材は墨や金箔そして岩絵具を使った伝統的技法でしかも大胆である。

“今のものをどんどん壊して、どんどん新しいものを生み出して行かない限り、自分の進歩はないと思う。

年齢だけは人並みに経ちましたけど、アートの世界はどこまで行っても荒野を駆け巡る青年、少年でありたいと思います。

思い切り遊びたいです、遊び心を活かしたいですね”と。

画竜点睛を欠く……その睛である瞳はまさしくモネであった。

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