食のグローバリゼーション 65

ハプスブルク家の伝統を受け継ぐお菓子職人

~ オーストリア スイーツ・ショップ デメル ~

商人や職人たちにとって、身分の高い人や経済力のある人に品物を納めることができるということは、この上ないステイタスを得たことになる。

対価を顧みずに納品された品物が、高い品質やサービスの証となる。

江戸時代には、呉服所菓子所畳師指物師塗師絵師鍛冶師具足師などの商人、職人の中には、幕府御用達と呼ばれる人がいた。

明治時代以降にも宮内庁御用達が、特定の商品を宮中に納めた。

日本ばかりではなく、ヨーロッパ社会にも同じような習慣があったようだ。

品種ごとに特定の人から調達し続ければ、品質は高いレベルで維持され満足感が得られる。

中世ヨーロッパにおいて広大な大帝国を築いたハプスブルク家は、ウィーンを帝都として宮殿を構えていた。

現在でもホーフブルク王宮として残るエリアの一画には、皇帝の執務室、祝祭の間、式典の間、舞踏の間などの他に、立派な王宮劇場が建設された。

 

この王宮劇場の舞台側入口の前に、1786年、ロココ様式による一軒のスイーツ・ショップがオープンした。

ルートヴィッヒ・デーネが創業したカフェ・コンディトライは、開店後たちまちウィーンの人々の評判となった。

当時のヨーロッパでは、貴重な砂糖を加えたお菓子を皇帝や王侯貴族のために作る菓子職人が、「ツッカーベッカー」と呼ばれていた。ルートヴィッヒも、「ツッカーベッカー」の一人だ。

2代目となった息子のアウグストが政界入りしたため、次代を職人長のクリストフ・デメルに譲った。

18世紀後半から19世紀にかけてのヨーロッパは、フランス革命からナポレオン戦争に向かう激動の時代を迎えていた。

ウィーンは国際都市となり、ヨーロッパの中心的な役割を担うようになっていた。

ナポレオン戦争終結後の1814年には、ウィーン会議が開催され、周辺各国からウィーンを訪れた王侯貴族たちをもてなすために、帝都の菓子職人たちは腕を競い合うことになった。

クリストフが1867年に亡くなった後は息子のヨーゼフとカールが店を引継ぎ、店の名前は「クリストフ・デメルの息子たち」に改めた。

この店名が現在に受け継がれている。

かつてデメルの店舗は、地下道で王宮劇場と繋がっていたのだが、王宮劇場の移転に伴って、店舗は1888年にコールマルクトに移動した。

「デメルを訪れずしてウィーンを語るなかれ」とまで言われ、「デメル」と王宮は深い縁をもった。

重厚な石造りの店舗を構え、ハプスブルク家の紋章ブランドマークとして、「デメル」は220年を超える歴史を脈々と受け継いできている。

「デメル」の名を飛躍的に高めたスイーツが、現在でも看板商品となっている「アンナ・トルテ」だ。

3代目の女主人の名前を由来とするトルテは、皇帝のフランツ・ヨーゼフ一世にこよなく愛された。

クリスマスには、皇帝自らが「デメル」にプレゼント用のスイーツを注文していたと言う。

また、フランツ・ヨーゼフ一世の妻、エリーザベートは皇帝の誕生日に「デメル」のイチゴジャムをプレゼントしたという記録もある。

「デメル」は、世界でも指折りのスイーツ・ショップとして知られ、国境を越えて多くの人々に愛され続けてきた。

トルテやジャムの他にも、バラエティー豊富なチョコレートをショップに並べている。

一つ一つ丹念に手作りされたチョコレートは、丁寧に箱詰めされる。

甘い香りが残る紙箱や、ピンク色の包装紙にもロマンチックな趣をもっている。

伝統のお菓子職人の愛情がたっぷりと込められたスイーツが、世界のどこかで、素敵な物語を育んでいることが想像される。

 

写真(食65-2)

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