ジョルジュ・ルオー ~ピエロの笑顔~

ピエロとクラウンの違いって、なんだろう?

ラウンは道化師のことであり、ピエロはその中に含まれる1つのジャンルみたいなものだ。

ピエロの笑いは自虐的で、嘲笑され涙を流しているのが外見的特徴だという。

そう、彼らはいつだって人々を笑わせながら、笑顔と涙を同時に見せている。

私は軽度のピエロ恐怖症だ。

それでもピエロの人形を部屋に飾っていた時期がある。

処分した記憶はないので実家にまだ残っているのかもしれないが、取りに行こうとは思わない。

友人から贈られた誕生日プレゼントだったため捨てるに捨てられなかった。

どうしても馴染むことが出来ず、眠る前にはクローゼットに仕舞っていた。

夜中に目を覚ますと、カーテンの隙間から月明かりが入り込み辺りを薄紫色に照らしている。

クローゼットの扉を片側だけ閉め忘れていたのだろう。

光の届かない左半分で暗闇が口を開けている。

その奥にはピエロの人形がいるはずだ。

ガラス玉のような涙を頬まで流して、それでも真っ赤な口は笑っている。

暗闇の向こうから彼の冷静な視線が向けられているように思えて、闇を睨み返すように過ごした夜もあった。

ピエロに恐怖心を抱くようになったきっかけを考えてみた。

まず思い浮かぶのは、映画『ポルターガイスト』だ。

それは墓の上に建てた住宅に越してきた一家が数々の恐怖体験をする物語だった。

末娘はテレビから異次元に飲み込まれ、息子は庭の樹木やピエロの人形に襲われる。

これがピエロを怖いと認識したきっかけかもしれない。

子供の頃この映画を実話のように思っていた。

映画関係者に不幸が続き、呪われた映画だと囁かれた。

それは続編が制作される度に信憑性が増していく。

1作目では長女を演じた女優が映画公開直後に恋人に殺され、2作目では牧師役の俳優が公開前に急死。

ラスト3作目では末娘キャロル・アンを演じていた12歳の少女が原因不明の病に苦しみクランクアップ直後に急死した。

呪いの評判を聞いて以来、この映画に登場する砂嵐のTV画面やピエロ人形を本当に不気味に思ってきた。

ピエロ恐怖症の人は意外と多い。

やはりドラマや映画の影響も大きいという。

その代表例が前述のホラー映画であり、スティーブン・キング原作の映画『IT(イット)』だ。

後者は殺人ピエロが少年たちを襲う物語で、実在の連続殺人犯がモデルになっている。

ジョン・ウェイン・ゲイシーは別名キラー・クラウンと呼ばれ、1970年代アメリカで30人以上もの子供たちを殺害した凶悪犯だ。

人知れず殺人を繰り返しながら、休日はピエロの扮装で施設などを訪問しボランティア活動をする子供たちの人気者だった。

あまりに衝撃的な事件だったため多くの映画やドラマに反映され、それらがピエロ恐怖症の増加を助長したとも言われる。

そうはいっても、ホッケーマスクをつけた殺人鬼のホラー映画が有名だからといって、ホッケー選手が怖い人は少ない。

なぜピエロにだけ恐怖心を抱くのだろう。

それはピエロの笑顔の裏に、どんな本心が隠されているのか読み取れないからかもしれない。

映画狂の私にとって長らく畏怖する存在となっていたピエロのイメージを、一変させた画家がいる。

それはフランスの画家ジョルジュ・ルオーだ。

彼は野獣派に分類されるが、同主義との共通性は少ない。

ステンドグラスのような黒い縁取りが特徴的な作品や、彫刻や版画のように絵の具を厚く塗り重ねたり削ったりしてカンバスから盛り上がった半立体的な作品などが有名だ。

野獣派らしく色彩や筆致はダイナミックだが、不思議なことにそれは荒々しさよりも繊細さが感じさせる。

ルオーは生涯に渡って、サーカスの踊り子や道化師を数えきれないほど描いた。

彼の描くピエロやクラウンは、愉快でも滑稽でもない。

華やかな舞台衣装と派手な化粧の下から悲しみや苦悩が滲み出ている。

それらを享受して優しく微笑んでいるものもいる。

私は彼らに出会い、初めてピエロに心惹かれた。

サーカスをテーマとした作品数は全体の約3割を占め、「道化師の画家」とまで呼ばれたルオー。

なぜ画家は、それほどまで多くの道化師を描き続けたのだろう。

 

画家が生まれた1871年5月27日は、パリ・コミューンの崩壊前日で激しい砲撃が続いていた。

そのため彼は地下の穴倉で誕生することとなる。

両親ともに信仰心に厚く、父親は家具職人だったが生活は苦しかった。

貧しさの中で育ったルオーは、幼い頃に母方の祖父から絵画の手ほどきを受けている。

14歳になると父に勧められてステンドグラス職人の見習いとして働き始める。

昼間は熱心に働き、夜は装飾美術学校の夜学でデッサンを学んだ。

後の絵画に見られる独特の黒く太い縁取りは、こうしたステンドグラスの表現に通じている。

 

画家になることを決心したルオーは1890年にエコール・デ・ボザールに入学し、2年後に生涯の師となるキュスターヴ・モローの教室で学ぶ機会を得る。

同じ教室から、彼の他にもマティスやマルケなど色とりどりの才能が開花した。

モローは宗教的主題を得意としておりルオーもまた聖書などの主題を多く描いているが、実は若きルオーは宗教的な絵画は描くまいと心に決めていた。

モローは自らの表現や意見を押し付ける人物ではなったので、尊敬する師の芸術から生涯取り組むべくテーマを見出したのだろう。

モローはとりわけルオーに目をかけていた。

そして才能を開花させるために学校を辞めることを勧めたという。

美術学校を離れても師弟としての関係は続き、モローの死後には画家のアトリエに設立されたモロー美術館の初代館長を勤めた。

心から尊敬する師の美術館を任されることはルオーも望んだことと思うが、彼を任命する事はモローの遺言でもあった。

そして師は、ルオーのために幾ばくかのお金も遺している。

恩師への敬愛の念を表すかのように、宗教的主題には生涯取り組み続けた。

そうして今日では20世紀最大の宗教画家とまで呼ばれている。

心の支えを亡くしたルオーはしばらく不安定な状態に陥るが、新たな出会いをする。

 

次なるキーパーソンは、1913年に全作品を購入すると申し出た画商ヴォラールだ。

1917年には専属契約を結び、経済的にも安定した。

しかしこの専属契約が後年に諍いを生むことになってしまう。

職人気質のルオーと、商品として作品を扱う画商との間が上手くいくわけがなかった。

画商は画家の仕事が遅いと文句を言い、画家は画商の際限ない要求に辟易していった。

1939年にヴォラールが他界すると、彼の相続人たちがルオーをアトリエから締め出してしまう。

しかし画家は自らが満足できない作品を世に送り出すことが許せなかった。

未完成の作品を返して欲しいと何度も頼んだが理解は得られず、裁判に発展する。

さて、未完の作品は画家のものだろうか?全作品の権利が画商にあれば、未完成でも画商の商品だろうか?7年後に裁判でその決着がつき、ヴォラールの相続人たちは約800点の未完成の作品を返却するよう命じられた。

しかし119点は返還されていない。

ルオーは翌年11月5日、還ってきた作品のうち315点を暖炉の火にくべてしまう。

自分が生きているうちに完成させることが出来ないと判断しての行動だった。

納得できるまで作品と誠実に向き合い、幾度も筆を入れて満足したもののみにサインと制作年を入れる。

画家は既に70代後半。

300点余りもの作品を処分したことは、ルオーらしい潔い決断だった。

それから十年後、画家は享年86歳でこの世を去った。

宗教画家ルオーのもう一つの顔が、道化師の画家である。

彼はなんと700点以上もサーカス団員や道化師の作品を制作した。

その出会いは貧しかった少年時代まで遡る。

幼い日、サーカスの踊り子や道化師たちは憧れだった。

色鮮やかな衣装を身にまとい、楽しげな音楽、煌びやかなライトの中に彼らはいた。

少年の目に、笑いと熱気が溢れる中で舞台に上るサーカス団員の姿はどのように映っていたのだろう。

そして憧れの存在だった彼らの実生活を理解できる年齢になり、青年は何を感じたのか。

当時パリジャンの興味はすでに映画に移り、サーカスは時代遅れとなりかけていた。

彼らの化粧の下には悲哀や苦労があった。

生活の不安、夢の儚さ、挫折や貧しさといった素顔を隠した人々を、ルオーはモデルに選んだ。

そして、画家はこう語っている。

「我々は皆、道化師なのだ」

ルオーの描くピエロに魅力を感じるのは、現実を生き抜く人間の姿を描いているからだろう。

それは自画像であり、鑑賞者の肖像画でもあるのだ。

私はルオーの作品と向き合った時、初めてピエロに恐怖ではなく愛おしさを感じた。

出会ったことのない無恰好な人物が、とても身近に思える。

偽りの化粧を施した彼らが垣間見せる表情に、豊かな人間味を感じた。

悲哀に満ちた現実と必死に戦い、人々を笑顔にさせるために精一杯生きている道化師。

ピエロは自らが悲しくても辛くても、周囲を幸福にする力を持っている。

ルオーは「我々は皆、道化師なのだ」と言い、道化師に姿を借りて人間というものを描いた。

周囲を笑顔に変える力。

私たちもその力を持っていることに気付くべきなのかもしれない。

ルオーの描いた道化師は、チャップリンの『ライムライト』の主人公に似ている。

人気を失って自暴自棄になっていた道化師が、夢に破れたヒロインを力強く励ます。

チャップリン扮する道化師カルヴェロは、地球の自転や木々の生命力と同様に私たちにも大いなる力があると説いた。

そして「死と同じように生も避けられないことだ」と言った。

ルオーの作品を前に、カルヴェロの力強い叫びが聞こえてきそうだ。

That’s life. Life! Life! Life!

 

ジョルジュ・ルオー (Georges Rouault)の
主題と出会いにまつわる略年表

(1871年5月27日フランス パリ ― 1958年2月13日フランス パリ)

1871年5月27日 パリ・コミューンで街に砲弾が飛び交う最中、ルオー誕生。

1885年 母方の祖父に絵画の手ほどきを受けた後、14歳でステンドグラス職人の見習いとなる。また夜間は装飾学校に通う。

1890年 国立美術学校に入学。

1892年 前任の画家が亡くなったため、ギュスターヴ・モローが後任となる。マティスやマルケと共に学ぶ。

1895年 才能を伸ばすために学校を辞めることをモローに勧められる。

1898年 師ギュスターヴ・モローが他界。

1902年 水彩やグアッシュを用いて、娼婦や道化師などを多く描くようになる。

1903年 モローのアトリエがモロー美術館として開館し、ルオーが館長を務める。サロン・ドートンヌの設立者の一人として1908年まで毎年参加。

1907年 検事局のグラニエ検事と親しくなり、彼の勧めで最高裁判所へ傍聴に通う。熱心に通いつめ、ルオーにとって“裁判”もまた特別な主題となる。

1908年 画家アンリ・ル・シダネルの妹マルトと結婚。4人の子を授かる。

1913年 画商アンブローズ・ヴォラールが作品を気に入り、全作品の購入を求める。

1917年 ヴォラールに全ての作品を任せるとして専属契約を結ぶ。

1918年 この頃から油彩画がメインになってくる。同時に、版画にも熱心に取り組む。

1930年代 道化師、ピエロ、裁判官、聖書の風景や宗教的主題など、得意とするテーマを大画面に描く。

1934年 ヴォラールとの関係が悪化。画商の過剰な注文が耐え難くなる。

1939年 ヴォラールが亡くなる。

1940年 ヴォラールの相続人たちは、ルオーのアトリエを封鎖する。

和解に応じて貰えず、未完成の作品返却を求めて相続人を告発する。

1947年 未完成の作品の権利は作者にあるものとする判決が下る。

1951年 80歳の誕生日を祝って「ルオー礼讃」が開かれる。

1958年2月13日 パリにて死去。(享年86歳)

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