時節柄住宅街を歩いていると、どこからともなく甘い香りが鼻を擽る。
その香りは垣根一杯に拡がる白い可憐な花、ジャスミン(正式にはハゴロモジャスミンと言うようだ)だった、ガーデニングブームの影響だろうか、やたらあちこちでジャスミンを育てている家が目に止まる。
ジャスミンは記憶に新しい、数年前に調香師を番組企画で取り上げたことがあった。
子どもの頃より異常なほど鼻が利き、友人からは犬のようだとからかわれたりもした。
嗅覚が鋭いというのも時に身体に変調を来すこともある、匂いが鼻腔に残って消えない、まるで残り火のように。
夕方ともなると泥の匂いが香ってくることがある、必ずと言って良いほど翌日は雨になる。
家族のものにそれを予告すると当初は笑っていたが、明けると雨になっていた。
また、たき火の匂いに似た臭いが風に乗って香ってくる、どこでたき火をしているのかと訝ると、その悪臭にも似た臭いは幹線道路から放つ排気ガスが正体だった。
それも住まいからかなり離れていると言うのに、その悪臭は鼻の奥へと藪から棒に侵入してくるのだ。
兎にも角にも鼻が利くと言うのも、当事者にとってはやっかい極まると言って良い。
だが、一方でその才能を活かした職業を選んでいればいまごろは……と、そんな絵空事に現を抜かす自分がいたりする。
いまだ枯れない”嗅覚”を調香師という世界にシフトし覗いてみたくなり企画を立てたわけである。
調香師をル・ネと呼ぶ(以前コラムで、紹介)、Le Nezとはフランス語で鼻を指す、鼻で匂いをかき分けることからその名が付いたのだろう。
この名称は一流の調香師にのみ与えられる称号で、世界でも250人ほど、多いか少ないかは読み手側に判断を委ねたい。
ル・ネたちは約3000種類の香りを嗅ぎ分けると言われている、通俗的な言い方だが鼻の構造が違うのだろうか……通常は一度嗅いだ匂いが鼻腔に留まり定着し、次の香りをムエット(試香紙)で試したところで新たな香りを言い当てることは凡人には難しい。
日々、彼らはその痛苦とも言えるほどの訓練を経て一人前のル・ネになっていく。
“もっとも神秘的で、もっとも人間的なもの、それはにおい”と言ったのはココ・シャネルだが、数十万種はあるといわれるにおい物質を、動物はどうやって瞬時にかぎ分けるのか。
この仕組みを解明したのがアメリカのリチャード・アクセルとリンダ・バック、04年に彼らはノーベル医学・生理学賞を受賞した。
匂い物質と受容体は鍵と鍵穴の関係にたとえられる、匂い物質が受容体にはまると、スイッチが入って、匂いが感知されるのだという。
1つの受容体に特定の匂い物質が対応しているわけではなく、複数の匂い物質がカバーするのだ。
一方、1つの匂い物質も複数の受容体で感知し、その結果、組み合わせが無数にできる構成になっている。
少ない受容体で無数の匂いをかぎ分けることができるのは、この仕組みのおかげだ。
第3の感性ともいわれる香り、13世紀初頭に香りの調香がグラースからスタートした。
その発端はなめし皮の匂い消しに起因する、昔は手袋に香りを着けていた。
病気は悪臭によって運ばれてくる、と信じられていたからだ。
また、腸チフスを防ぐために、城の床にはタイムなどの香辛料がまかれていたと言われている。
この時代、貴族や王族は別として、庶民の家にはトイレも完備されてなかったと言うから汚物の垂れ流しは相当なものだったと推測する。
その点、我が国は(13世紀は鎌倉時代)排泄に関してはきわめて清潔だったようだ。
フランスはグラースの街から香水は発展していく。
多くの香水メーカーがコスト面の理由から海外へと花畑を移す中、シャネル社はクオリティ維持にジャスミンや薔薇を手に入れるため、天候と地形に恵まれたこの地での花栽培にこだわっている。
ここ数年フランスの天然香料の生産は極端に少なくなってきている、故にシャネル社はフランス産に執心する理由が分かるというものだ。
シャネル社はグラース近郊に10ヘクタール(30,250 坪)のジャスミンとバラの契約農場を持ち小さな抽出工場もそなえ、シャネル社独自の栽培方で花を育てている。
ジャスミンの花からエッセンスを抽出し精製すると、あの官能的とも言える最初の香水シャネルNo5が生まれる。
因みに前出したハゴロモジャスミン、香りは似ているがこの花からは香料は採れない(と言うよりビジネスにならない)。
シャネル社が扱うのはコモンジャスミンという品種で、似て非なるジャスミンは数百種類あると言われているが、No5に使うジャスミンは唯一コモンジャスミン、しかも香料専門として栽培しているのだ。
ル・ネ……中でも天才と呼ばれるのが、シャネル社専属調香師ジャック・ポルジュ。
存在しない香りのイメージを思い浮かべ、現実化するという極めて特異な世界に身を投じ新たな香りを追究している。
ポルジュとの約束を取り付けるまでにかなり時間を費やし、やきもきした記憶がある。
なにせメディアでの露出を嫌っていたし、しかも気むずかし屋と来ているから始末に悪い。
調香師、化学の知識はもちろんだが、アーティストとしての才能がなければこの世界では生きていけないと感じる、いわんや気むずかしさも当然と言えるだろう。
息子の1人オリヴィエ ・ポルジュは父の後を継ぎ、そしてもう1人の息子ドゥニ ・ポルジュは画家となった、やはり血は争えない。
これは推測だが、メディアに露出すればするほど価値は下がるとポルジュは考えていたのだと思う。
“パリは朝から自分のことばかりしゃべっている都市である”というジャン・コクトーの言葉があるが、ポルジュはコクトーの箴言を聞いていたのだろうか。
私が、僕が、オレが、ばっかり出てくれば、それは誰もうんざりしてしまうに決まっている。
それは全ての生業に言えることだ、名を売ることが最良とは思えない。
ようやくポルジュから日本支社を通じ連絡が入った。
9月か10月に、ポルジュは花のクオリティーチェックにグラースへ出かけると伝言してきた。
そこでのインタビューならOKだと、しかしポルジュの指示が続く、演出家の指示は受けない、ポルジュに従ってもらうと言うのだ。
我々は目くじら立てず彼の言葉に従った、諸手を挙げバンザイと言うところだったが、最後の最後で企画は頓挫してしまった(その理由は”香りの音階を操るNezという称号”を参照あれ)。
日本のハゴロモジャスミンは花盛りだが、9月ともなればグラースに繊細で豊潤な香りを放つことだろう。