エドガー・ドガ ~甘い香りと踊り子と美しい人~

誰もいない籠の中は、甘く女性的な残り香で満ちていた。

鼻孔の奥で微かな刺激を感じるのはエタノールだろう。

エレベーターの扉が閉まる瞬間、慌てて大きく呼吸をして息を止めた。

腕時計は午後11時48分23秒を指している。

美術館までは直通運転なので1分もかからない。

こんな場所こんな時間にトップ・ノートを残すのは、まだ若い女の子の仕業だろうか。

芳香の落とし主が美術館に向かったばかりでないことを願おう。

空気の流れが少ない展示室では、服に染みついた匂いに作品鑑賞を邪魔されることがある。

冬の外套から漂う雨の香りや、夏の子供たちが放つナッツのような臭いなら悪くない。

濃厚なパルファムでもラスト・ノートなら我慢の領域だが、付けたての香水だけは主張が強すぎて歓迎できない。

息苦しさを覚えた頃に扉が開き、私は念のため両肩やスカートの裾を払って甘いトフレグランスとさよならをした。

 

美術館に入ると、展示室ではドガの若い踊り子がバレエの稽古をしていた。

ドガは踊り子たちが見せる一瞬の動静を永遠に画布に留めることに成功した画家だ。

30代後半から踊り子を主題に多くの作品を制作し、その試みは約40年間も続いた。

緻密で冷静な筆遣いは、同時に優雅で柔らかく軽やかでもある。

印象派として知られる画家だが、彼の作品には印象派の技巧や制作方法などの特徴は見られず、もっと古典的でアカデミックな雰囲気を漂わせる。

それでも印象派展に、第7回を除いて全て参加しているから面白い人物だ。

ドガという画家は、作品から想起されるような穏やかなイメージとは異なり、かなり厄介な男だった。

 

1834年、ドガはパリの裕福な家庭に生まれた。

一族の姓はド・ガスと綴るが、画家は貴族的な響きを嫌って、後に「ドガ」と名乗るようになる。

父親は祖父がイタリアに創設した銀行のパリ支店支配人で、母親は植民地生まれのフランス人だった。

貴族の出身の母はフランスで教育を受け、16歳で結婚して子宝にも恵まれた。

しかし第7子の出産直後に32歳の若さで他界した。

その時まだ13歳だったドガ少年は、芸術に理解ある父の影響を大きく受けて育った。

名門中学から大学まで順調に進学し、父親の勧めに従いパリ大学で法律を学ぶ。

もちろんそれは銀行家として家業を継ぐためだったが、画家になることを決意すると1年であっさり退学してしまった。

この頃、ドガを導いたのは中学で出会った親友ポール・ヴァルパンソンの父だった。

美術蒐集家であったアンリ・ヴァルパンソンの勧めで、アングルの弟子ラモトの画塾に入った。

師の影響でドガアングルに傾倒していく。

翌年、アングル本人に会う機会を得たのもアンリ・ヴァルパンソンの紹介だった。

アングルに言われた「線を書きなさい。とにかく沢山の線を」というアドバイスを生涯大切にして、ドガはいつも数えきれないほどデッサンした。

ちなみにドガは大変気難しく長く友達で居続けることが困難な性格だと言われているが、中学で出会ったポール・ヴァルパンソンアンリ・ルアールなどの学友は終世の友であった。

 

1855年にエコール・デ・ボザールに入学する。

しかし翌年には中退し、父方の親戚が多く残るイタリアへ何度も旅した。

ルネサンスの巨匠たちの作品を熱心に模写し、約三年の修行時代を送る。

それらが実を結び伝統的な主題を見事に描いた。

60年代前半までは歴史画を中心に制作している。

そうした古典的作品を得意とする一方、パリで出会う印象派の影響を受けて身近な題材にも取り組むようになる。

例えば友人の肖像や競馬、そして踊り子たちを意欲的に描き続けた。

 

運命の出会いは1865年頃、カフェ・ゲルボワにあった。

そこには当時、マネモネルノワールピサロら若き芸術家たちが集っていた。

彼らとの交流を通じてドガの色彩はやや明るくなり、前述の通り描く題材にも変化が起きる。

しかし周囲のように単純に色彩を追い求めることはせず、独自の芸術を貫き通した。

戸外制作を極端に嫌い、色彩の探求もしないけれど、ドガの作品には確かに印象派の画家といえる新しさがあった。

それは写真や浮世絵に影響を受けた斬新な構図や極端な遠近法である。

 

印象派展には、第一回から熱心に参加した。

しかし意見の相違から仲間たちとの喧嘩は絶えず、温和で知られるピサロモネルノワールとも衝突している。

中でもカイユボットとは険悪で、彼が印象派展から退く形で決着をつけた。

全8回のうち唯一参加しなかった第7回印象派展は、反サロンを掲げる同志のはずのモネルノワールがサロンに出品したことに腹を立てたことが理由だ。

こうした数々のエピソードからは、協調性が無く強情なドガの性格が容易に想像できる。

 

1870年には、中学からの親友ルアールと共に普仏戦争に参加した。

戦争で目を傷めたため、その後は色彩が濁らないパステル画の制作も行うようになる。

そして衰えた視力でも制作可能な彫刻に挑むようになった。

80年代半ばには理解のない大衆や評論家を嫌って、作品の発表を拒み孤立していく。

90年代になると視力はさらに低下し、絵画制作は困難を極めた。

1898年にはもうほとんど盲目だったという。

晩年のドガは世間から離れて暮らすようになり、ますます孤立した。

22年間過ごしたアトリエが地域の再開発計画のために取り壊しになり転居すると、もう作品を制作する事さえなく、見えない目では蒐集した名品を鑑賞することもできなかった。

ただゆっくりと足元を確かめながら、一人パリを歩いて過ごした。

1917年、脳溢血でこの世を去る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その葬儀には、先に亡くなった親友ルアールの息子やモネら友人たちが駆け付けた。生前の無愛想な印象とは異なる、穏やかで優しいドガの死顔は参列者の心に深く刻まれた。

巨匠の晩年の姿を想像するととても孤独で哀しく思えるが、ドガが最期まで威厳ある芸術家であり続けたことは救いでもある。私は作品と対峙する時、作者を不快にさせないよう注意を払う。例えばドガなら、派手な色やデザインの服は着ない。香水は付けないし、靴音にも注意をする。それが本当に死せる芸術家への想いなのか、周囲の鑑賞者への配慮なのかは自分でもわからない。空間に同化して、作品に溶け込んでしまいたいと願うからかもしれない。
奥の展示室に移ると、先ほどエレベーターで嗅いだ香りが再び淡く漂った。彼女はドガの怒りを買うかもしれないと、私は苦笑する。なぜならドガは、私よりもずっと香りに厳格だった。食事の席に香水をつけた女性が来ることを禁じたし、テーブルに花を飾ることも避けた。この他にも食事に招待する時には厳格な規則がいくつもあったという。バターを使う料理はNGだし、犬を連れて行くのもダメ、香水も花も明るいライトも許さず、必ず7時半きっかりに席に着くことと決めていた。作品を眺めながら、画家と囲む不自由な晩餐を想像してみる。鑑賞の合間に下らぬ妄想で一休みすることは、作者について知った後の楽しみの一つだ。
帰りにミュージアムショップに立ち寄った私は、ついに香りの主に出会った。デートのために精一杯着飾った女子大生を予想していたが、甘い香りの”彼女”はイメージとは全く異なる風貌だった。桜色に白いチェック柄のマイクロミニのスカートから伸びる長く筋肉質な足には、びっしりと脛毛が生えている。更に視線を下すとゴールドのピンヒールだ。高く響く靴音を気にしているのか、摺足で店内を歩いていた。不自然に突き出たバストは、片胸だけでも靴下6足分くらいの膨らみがある。ヒゲは剃っているがスッピンのようだった。品の良い顔立ちのおかげか、中途半端な女装でも決して滑稽ではない。彼女は来る途中に変身したのかもしれないと思った。日常から解放され素直な自分に向き合う時間を求めて、美術館にやってきた。トイレで素早く着替えて男物の服は胸元に押し込み、仕上げにオーデトワレを吹きかける。
香水は塗布して香りが消えるまで3段階に分けることができる。初めの15分程度はエタノールの刺激と強い香りを放つトップ・ノート、体温で温められて調和した香りを放つ1時間~数時間がミドルノート、そして柔らかな香りが消えるまでをラスト・ノートという。彼女のつけたものがオーデトワレやオーデコロンなら、長くとも3時間程度で香りは消えてしまう。彼女の装いもその頃には元に戻ってしまうのかもしれない。化粧もウィッグもせず、ただ甘い花の香りだけを身に纏った彼女を、私は美しいと思った。日常を忘れて裸の心を開放するため美術館に足を向けたのなら、それは叶っただろうか。心の扉を全開にして作品を感じることができたのだろうか。怒りっぽいドガ氏も、彼女のことなら気に入るかもしれない。大きな窓に目をやると、玩具のように小さな東京の街が見えた。

イレール・ジェルマン・エドガー・ド・ガス(Hilaire Germain Edgar de Gas)の
貴重な友人たちと家族にまつわる略年表
(1834年7月19日フランス パリ ― 1917年9月27日フランス パリ)

1834年 7月19日、パリにて長男として誕生。(後に弟アシル、弟ルネ、妹テレーズ、妹マルグリットが生まれる)
1845年 中学に入学し、生涯の友アンリ・ルアールやポール・ヴァルパンソンと出会う。
1847年 母セレスティーヌ=ミュッソンが32歳で死去。
1852年 父に連れられ、美術館やヴァルパンソンら美術蒐集家の家で芸術に親しむ。
1853年 銀行業を継ぐためにパリ大学法学部に入学。
1854年 アングルの弟子ルイ=ラモトの画塾に通う。画家となるためパリ大学を中退。
1855年 エコール・デ・ボザールの絵画・彫刻科に入学。アンリ・ヴァルパンソンに連れられアングルのアトリエを訪問。以降、ヴァルパンソン家とは長い交友が続く。
1856年 イタリアの祖父が他界。3年の修業期間を終え、パリへ戻りアトリエを構える。
1862年 ルーヴル美術館でマネに会い交友を始める。
1863年 妹テレーズが、従兄弟と結婚。弟ルネが父の銀行をやめてアメリカで独立。
1865年 妹マルグリットが建築家フェヴルと結婚。カフェ・ゲルボワに通うようになる。
1866年 バレエや舞台をテーマにした作品の制作を始める。
1867年 1月14日、敬愛するアングルが他界。
1869年 弟ルネが従姉妹エステルと結婚。マネに誘われた旅先でパステル画を制作。
1870年 普仏戦争に志願し、終生の友ルアールが隊長を務める砲兵隊中隊に配属される。
1873年 父が旅先で体調を崩し、ドガはトリノへ看病に向かうも翌年に父は他界。
1875年 弟アシルが元恋人の夫ルグランに襲われ、ピストルで反撃し軽傷を追わせる。
(アシルは懲役6カ月の有罪となるが、後に懲役1カ月、罰金50フランに軽減された)
1878年 母方の家業を継いだ弟ルネが仕事と盲目の妻エステルを棄てた末、ニューヨークで別の女性と結婚。ドガは弟の行動を非難し、20年間絶縁状態となる。
1881年 グループ名や参加する芸術家について衝突し、カイユボットが印象派展から退く。
1882年 サロンに出品したモネとルノワールに腹を立てて、第7回印象派展は参加拒否。
1883年 4月30日、マネが51歳で死去。
1892年 ジュネーヴに弟アシルを見舞う。マネの弟ウジェーヌ(モリゾの夫)が死去。
1893年 10月13日、長い闘病の末に弟アシルが死去し、ドガは深く心を痛める。
1894年 親友ヴァルパンソンが60歳で死去。
1895年 妹マルグリット死去。女流画家モリゾも他界。印象派の仲間やマラルメらは、モリゾの回顧展に尽力。両親を亡くしたジュリーに、ドガは父親のように接する事もあった。
1897年 弟ルネとは絶縁状態だったが、弟妹が亡くなり再び交流するようになる。
1899年 ドガのパステル画をルノワールが売ったことが発端で、二人は激しく喧嘩をする。
1900年 ジュリー・マネは、ドガに紹介されたルアールの息子エルネストと結婚。
1912年 親友アンリ・ルアールが78歳で死去。妹のテレーズも他界。同年、約20年暮らしたアトリエが取り壊されるため、(ユトリロの母)画家ヴァラドンの紹介で転居。
1917年 9月27日、ドガは脳溢血により83歳で亡くなった。

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