ジョルジュ・ルオー、アルチザンからアーティストへの苦悩

やや猫背気味の老男が一枚の絵を手に取り見つめていた、そして何を思ったかおもむろにその絵を2つに折り、黄丹色ゆらめく炎の中に躊躇わず投げ入れた。

まるで登り窯に薪をくべるかのような動作、よほど気に入らなかったのだろうか、暖を取るための行為ではない。

一瞬にしてその絵は燃えさかり、見る影もないほどにオレンジ色の炎に染まっていった。

暖炉を見つめる老男、その顔は何事もなかったかのように落ち着き払っている、どんな思いで焼き捨てたのだろう、哀しくはないのかと映像に向かって私は呟いた。

 

その老男とはフォービズムの画家ジョルジュ・ルオー、先日友人宅で見せてもらったルオーの伝記映画のワンシーンである。

画家にとって絵を破棄する、もしくは焼いてしまうということは画家生命を断つことに等しい行為、あの時のシーンは今もなお深く心に刻まれふとしたきっかけで蘇ってくる。

それ以上にルオーの心は定かではなかったろう、恬淡の顔であっても心は鬼気迫るものがあったに違いない。

実はルオーが火中に入れた作品は一枚だけではなかった、315点もの絵が暖炉に放り込まれたのである。

ルオー、77歳の時であった。

作品を暖炉に投げ入れた事の発端は、当時画商として名を馳せたボラールとの契約にあった(パリで法律の勉強をし,傍ら美術の売立てにも興味を持ち,1894年にラフィット街に店を開く。

セザンヌに早くから目をつけ,ルノアールの信頼も得,1901年という早い時期からピカソに関心を持った。

無名時代から積極的に買い上げ後援するタイプの画商で,ボナール,ドラン,マティス,ルオーなども彼に負うところが大きい/世界大百科事典 平凡社より出典)。

アトリエにあった製作中の約800点もの作品を、全て完成することを条件に画商ボラールに売り渡す契約を交わしたのであった。

だが、そんな約束もボラールの不慮の交通事故で頓挫してしまう、高潔なルオーは作品を取り戻すためにボラールの相続人を相手に訴訟を起こす、なぜなら相続人がルオーの作品を差し押さえていたからだ。

ルオーの主張はこうだ、”絵が未熟である以上、画家としての良心から絵を濃き渡すことはできない”と、凡人なら目の前にぶら下がったモノは手放したくない、でもルオーの矜恃が許さなかった。

そしてルオーの訴訟は認められ、生涯かけても完成できない作品を、自らの手で炎に中へ葬ったのである、なんとも己を律することが第一義と言う厳しい人であった。

ルオーを知ったのは子どもの頃だ、それも画集で知った。

後年になってキリストや道化師がモチーフであることを知り、徐々に関心が強くなっていった。

中でもキリストの”聖顔”はルオーの写し絵のようであり、彼自身の内面を捉えて放さない。

キリストは無然とした顔つきでなく、無骨さとほほえましさが相まって観る側の心を和ませてくれるような描き方だ。

だが、そんな生やさしい描き方ではないことがじわじわ時間経過と共に伝わってくる、シンプルであるほど見る側にずしりと重い説得力、巧さではないルオー自身の教義が否応なく襲いかかる。

タッチは違うが自画像を描いた村山槐多の絵と被るのだ、色遣いといい太い輪郭線がどことなく似ている気がする。

村山もフォービズムに影響された夭折の画家、ルオーになにかしら感化されたのだろうか。

ルオーの描く油彩画を見ていると不思議な気持ちにかられる、なぜこんなにも絵の具を重ねるのだろうと。

平面な画面に絵の具を岩山のように塗りたくる、その異様な盛り上がりにキャンバスの底からうなりを上げ何かが噴き出して来そうな気配だ。

でも、違うのだ、しばらく凝視していると岩山からこぼれ落ちるものは厳粛さそのものであり、穏やかな世界へ誘導してくれる絵であることに気づかされる。

何重にも塗られた絵の具は、ゆっくりと溶解し不純物など一切無い透明な”岩石”になっていった。

ルオーの愛娘イザベル(次女)が”岩石”を明かしてくれた、”父は意図して絵の具を重ねたのではありません、何度描いても納得行くものが描けない、そうこうしている内に絵の具が自然と盛り上がっていったのです”と。

ルオーは少年時代ステンドグラスの技法から出発したアルチザン、父もピアノの塗装職人だった、その職人としての自覚が原点となり頑なまでに絵の完成度を極めていったのだろう。

イザベルはこうも言った”父は口癖のように言っていました。職人から始めて、芸術家に至るのだ”と。

そこにはステンドグラスの透明度を追求した当時と相通ずる仕事一途な姿があり、決して諦めないルオーの美学があった、アーティストらしからぬアーティストだった。

それを証明する一枚の自画像がある”見習い職人”だ、一連の作品と比べて背景も暗いし正面を向いていない、未だ未熟であることを言いたかったのかも知れない。

ルオーは職人という言葉に誇りを持ち画業を続けていった唯一の人である、私的に言えば職人と言う言葉を安易に使いたくないが、ルオーが芸術家としての道を切り拓くきっかけとなったのは職人であったし、良くも悪くも頑迷であったからこそルオーの内に秘めた力強さが開花したのだろう。

ルオーはイーゼルを使わなかった、机にキャンバスを置き描いたという、これもステンドグラス職人時代のなごりだろうか、ルオーには派手さはないが静かな光がいつも注がれていた。

autoportrait

ジョルジュ・ルオー(1871〜1958)
パリ・コミューンの最中、パリで生まれる。

徒弟生活の傍ら工芸美学校に通い、国立美術学校でギュスターブ・モローの弟子となる。

道化師・裁判官・聖画・聖書の風景などをテーマに力強い名画を描き続けた。

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