何十年も交際した相手の名前を知らない。
そんなことがありえるだろうか。
長年付き合って結婚を決めた恋人が、今までずっと偽名を使っていたと知った瞬間の気分を想像してみて欲しい。
画家ボナールはまさにそうだった。
32年間も一緒に暮らして結婚を決めた時、恋人マルトはマルト・ド・メリニーではなくマリア・ブールサンであったことを知る。
それでも彼は彼女と結婚した。
そして互いに、生涯ただ一人の最高の伴侶となった。
ピエール・ボナールは、19世紀終わりから20世紀半ばにかけて活躍したフランスの画家である。
第八回印象派展に参加しているため印象派もしくは後期印象派の仲間に加えて展示されることもあるが、一般的にはナビ派に区分される。
日本的なナビ(ジャポナール)と言われるほど、日本美術の影響を色濃い作品を制作した。
また室内の日常的な情景を得意とする作風から「親密派(アンティミスト)」とも呼ばれる。
個人的には、後者の呼び名こそボナールには相応しいと思う。
彼が描く絵画は、許されて覗き見をしているような印象を覚える。
例えば彼が得意とした浴室の裸婦像は、自然で無防備な姿を描いている。
それはモデルと画家が極めて個人的な時間を共有できる関係だからこそ成し得る表現だ。
エロティックに裸体を描く口実として浴室を選ぶわけではなく、美しいと思える身近な時間の流れを画布に写したに過ぎない。
そのため鑑賞者は罪悪感を抱くことなくプライベートな光景を眺められるのではないだろうか。
1967年、ボナールはパリ郊外の比較的裕福な家庭に生まれた。
父は陸軍のお役人で、母エリザベットは兄シャルルと妹アンドレの3人の子に恵まれた。
ボナールはパリ大学法学部に進学するほど優秀な青年だったが、同時にアカデミー・ジュリアンにも通った。
その後、エコール・デ・ボザールでも絵画を学んだ。
学歴においては10数年前にドガが歩んだ道程とよく似ているが、ボナールは二足の草鞋を続けて、見事に法学士号取得した後は検事局で働いている。
プロの画家となることを選んだきっかけは、1891年にコンクールで優勝した一枚のポスターだ。
パリの街頭を飾ったポスター「フランス・シャンパーニュ」の成功を機に、画業に専念した。
このポスターはロートレックに影響を与えたことでも有名である。
運命の女性と出会ったのは1893年だった。
恋に落ち、同棲し、後に妻となったマルトは、この年以降に描かれた女性像のほとんど全てのモデルを務めた。
ミューズを得た画家は順調に作品を制作し、1912年には家を借り、南仏に別荘まで購入できた。
1925年には同じく南仏に2つ目の別荘を購入し、ついにマルトと正式に結婚する。
冒頭で触れたとおり、マルトは本名ではなかった。
その事実を知るのは、出会って32年後の結婚の時だった。
マルト・ド・メリニーと周囲に名乗ったマリア・ブールサンについては、出生も家族も詳しいことは知られていない。
彼女は他人との付き合いを好まず一日の大半をバスルームで過ごしたことから、かなりミステリアスな人物像が現在に伝わっている。
しかし恐らくその理由は彼女が病気を患っていたからだろう。
結核性の喉頭炎のために、浴室で長い時間を過ごさざるを得なかったのだ。
病弱な彼女には、ごく親しい友人と庭やテラスでお茶する程度が体力的に精一杯だったのかもしれない。
非常に物静かな印象のあるマルトだが、ボナールに強く希望したことが生涯に2つだけある。
それが結婚とバスタブだ。
長年一緒にいながら入籍していない二人のことを、結婚したくない女だと友人が陰口を言った。
それを聞いてしまったマルトは、深く傷付いて涙を流した。
そしてボナールに結婚を望んだのだ。
なんと彼らは、その翌日に結婚したという。
2つ目の願いは、結婚後に購入した別荘に、当時まだ贅沢品だったバスタブのある浴室を作ることだ。
もちろん画家は彼女のために、タイル張りの美しい浴室を造らせた。
この部屋から代表作がいくつも誕生した。
一日の大半をバスルームで過ごす女性と、そんな彼女を見つめて絵筆を動かす画家。
穏やかで仲睦まじい二人は、まさにベルエポックにふさわしいカップルと思われる。
では何故、心から愛している恋人に本名を告げずにいたのだろうと首を傾げたくなる。
名前など些細なことと言ってしまえば、そうかもしれない。
しかしもし私が、例えばマリリン・モンローと共に暮らす幸運に恵まれたのなら、ノーマ・ジーンと話したいし、芸名のマリリンより本名のノーマの姿を愛するだろう。
マルトが明かさなかったのは、本当の自分自身なのか、名前や出生だけなのか、今となっては分からない。
しかしこれらの疑問への答えは、あなた自身が作品を観ることで見つけられるかもしれない。
出会ってからマルトがこの世を去るまで、画家は絵筆を片手にミューズを見つめ続けた。
ボナールは彼女を見つめ続けることで、彼女の全てを理解しようとしたのかもしれない。
それに対してマルトも、ありのままを見せることで語らなくとも応えていたのだろう。
ボナールの作品を見ると、切り取られた「刹那的な今」ではなく、「今という一連の時間の流れ」を感じることができる。
時間は過去から未来まで繋がっている。
例えば入浴の前には散歩をしていたかもしれない。
我々にその過去は見えてこない。
しかし見えない過去が、描かれている時間に繋がっていると確信することができる。
ボナールもそんな風に、マルトとの時間を感じていたのかもしれない。
マルトが他界した後も、ボナールは浴室の裸婦を描いた。
最晩年にモデルを務めた女性は、通常の芸術家が求めるように動きを止めてポーズをとったわけではなく、普通に入浴して自由に動き続けるようリクエストされたと語っている。
彼女は、彫刻家アリスティッド・マイヨールのモデルを幼い頃から務めてきた女性だ。
モデルは長時間身動ぎせずにポーズを取るものと思っていたとしたら、さぞかし驚いたことだろう。
そして我々がそれを知って驚くべきは、表現の緻密さだ。
自由に動くモデルを前に描いた作品は、印象のみを捉えているわけではない。
水面の反射や鏡の映り込みなど細部まで丁寧に描写されているのだ。
色彩の魔術師などと呼ばれるために色彩ばかり評価されがちだが、私はボナールの作品に「真の姿を見る目」を感じてほしいと思う。
画家はいつも画布を壁にピンで留め、いくかの作品を同時に描いていた。
きっとその中の一つには、もしくは全てにマルトの姿があったはずだ。
ボナールの作品には、美しい色も素晴らしい構図もある。
鑑賞すべき要素はいくつもあるが、もっと単純でも良い気がするのだ。
一人の女性をこれほど見つめ続けた男性は他にいないだろう。
謎多きマルトはどんな女性だったのか、二人は幸せだったのか、そんなことに考えながら作中に流れる時間と画家の視線を感じてみてはいかがだろうか。
最晩年、甥や姪が世話してくれたが、孤独を痛切に感じさせる自画像を描いた。
さらに最後の作品は、仕上がりに満足がいかず手直しを望みながら自らの手で筆を握ることさえできず、甥に指示を出して画面左下に黄色を塗らせたと伝えられている。
最期まで画家として生きたボナールが亡くなったのは、それから数日後のこと。妻と暮らしたル・カネのベッドの上で、79年の生涯を終えた。
ピエール・ボナール(Pierre Bonnard)の
マルトと画業にまつわる略年表
(1867年10月3日フランス フォントネー=オー=ローズ ― 1947年1月23日フランス ル・カネ)
1867年 10月3日 パリ郊外に生まれる。
1885年 バカロレアに合格して、パリ大学法学部に入学。
1886年 最後の印象派展(第8回)に参加。
1887年 大学法学部にも通いながら、アカデミー・ジュリアンで絵画を学ぶ。セリュジエやドニに出会う。
1888年 法学士号取得。セリュジエを中心に、ナビ派が生まれる。
1889年 登記所でアルバイトをしながら、エコール・デ・ボザールに入学。ヴュイヤールらと出会う。
1890年 セーヌ県検事局に勤務。
1891年 手掛けたポスター「フランス・シャンパーニュ」の成功したのをきっかけに、プロの画家となる道を選択。パリの街頭に飾られ、ロートレックに影響を与えた。絵画に専念するようになり、最初のナビ派展に参加。
1893年 マルト・ド・メリニー(本名マリア・ブールサン)と出会う。
1895年 父ウージェーヌが他界。
1896年 デュラン=リュエル画廊で個展を開く。
1899年 画商ヴォラールによりリトグラフ作品集が刊行される。
1908年 アルジェリア、チュニジアに旅行。
1912年 2年前から毎年滞在していたヴェルノンに別荘「マ・ルーロット(私の家馬車)を購入。サン=ジェルマン=アン=レーに家を借りる。
1918年 母エリザベットが他界。
1921年 マルトの療養のため、リュクスィユなどで過ごす。
1925年 南仏での住居としてル・カネに別荘「ル・ボスケ(茂み、もしくは木立)」を購入。マルトと正式に結婚。
1928年 アメリカでの初個展が成功し、以後アメリカでも個展を開くようになる。
1939年 ヴェルノンの別荘売却。第一次大戦の終戦までパリに戻らず、ル・カネで活動。
1942年 1月25日、妻マルトが死去。
1945年 パリに滞在し、姪に付き添われてル・カネに戻る。以降は姪が生活の世話をする。
1947年 1月23日、ル・カネにて逝去。享年79歳。