満員電車の中、隣席に座った中年女性のイヤホーンから”I’m A Fool To Want You”が微かに流れて来た、ビリー・ホリディである。
なぜかその女性はハンカチで目元を押さえながら聴いていたのだ。
誰も彼女の仕草に気づかない、スマホをいじっているか眠っているかの乗客たち、レールの軋む音と耳元から流れる歌声にじっと耳をそばたて私は聴いていた。
この曲に涙したのか……それとももっと切ないことが彼女の身の上に起こったのだろうか。
電車に乗ればシャカシャカとしか聴こえないサウンドに些か苛立ちを隠せないこともたくさんあったが、これは許せた、ビリーの曲で一番好きな曲だから。
突然彼女が席を立った、感情を抑えられなくなったのか、ぎゅうぎゅう詰めの乗客をかき分け足早にホームを降りたのだった。
彼女の行方が気になり目で追った、その女性はベンチに座り、ハンドバックを両手で抱え嗚咽していた。
かつて一度だけ同じような光景を見たことはあったが、公衆の面前で涙する女性、よほど哀しかったのだろう。
15歳という年齢の割には大人びた少女が、仕事を求めて夜の街をさまよっていた。
1930年の冬、寒さが募るハーレムで、彼女はなにがしかのお金を求めて歩いていた。
あるクラブに飛び込んだ。
母と二人、今の生活から早く脱却しようと何度も哀願した。
やっと願いが聞き入られ”ひとり旅”を歌う、その歌は彼女の心境そのもの。
騒がしかった店内が水を打ったように静まりかえり、客は歌に感動し泣いている。
15歳の歌手、ビリー・ホリディが誕生したのだ。
ビリーは43歳で息を引き取る、命日は7月17日。
神の恵みの下で看取られながらビリーは黄泉へと旅立った。
レディ・ディの愛称で知られるビリー・ホリディ、来年で生誕100年を迎える。
ビリー・ホリディと言えば、”奇妙な果実”そして”Lover Man”がビリーの代名詞のように挙がるが、亡くなる一年前にリリースした” Lady In Satin”は儚い恋を歌った出色のアルバム。
手許にはLPとCDの2枚がある、今や聴けなくなってしまったLPのジャケは色褪せ、CDもかなり古びた感じになってしまった。
1年に数回無性に聴きたくなるのがこのアルバム、色恋沙汰は既に卒業している、鍵を掛けたつもりの記憶の蓋が時折開くのである、はて理由らしきものが見つからない。
奥底から掻きむしるような歌声、麻薬とアルコールが彼女の身体を蝕んでいく中でビリーは声を振り絞るように歌った。
称賛と罵声がビリーにはつきまとう、全身哀しみを身に纏ったジャズ歌手とはビリーを指すのかも知れない。
Lady In Satinのアルバムから聴こえてくる歌声は、何か覚悟めいたものがひしひしと伝わってくる。
音域も狭まる中で、身もだえしながら歌う姿はなんとも痛々しい。
この世の不幸の一切を受け入れたかのようなビリー、彼女は哀しみの淵で全人生を通りすぎていった。
Lady In Satinのアルバムにある”I’m A Fool To Want You”はこんな歌詞が綴られている。
あなたを欲しいなんて馬鹿な私
あなたを欲しいなんて馬鹿な私
かなわぬ恋におちるなんて
あなたの愛は他の人のもの
あなたを抱くなんて馬鹿な私
あなたを抱くなんて馬鹿な私
あなたの口づけも私だけのものじゃない
何度も何度も言い聞かせたわ
もういかなくちゃって
何度も何度も別れてみたけれど
いつもいつもあなたが必要になる私
また言わなくちゃならないこのことば
あなたを欲しいなんて馬鹿な私
あなたを欲しいなんて言いたくないけど……
間違っているのは知ってるわ
間違っているに決まってるわ
でもそんなことどうでもいいわ
あなたなしでは生きられない私なの
あなたなしでは生きられない私なの
いつもおどおどしながら男の愛を掴もうともがき苦しむ、なんと悲哀に満ちた虚しい歌詞だろうか。
まさにビリー・ホリディそのものの歌だ。
Lady In Satinで歌われている曲目は男に捨てられ、それでも諦めきれない歌詞が散りばめられている。
とくにI’m A Fool To Want Youは切ない、ビリーは自分の気持ちを忠実に、また愚直なまでに心を込めて歌う。
それは何を隠そう全曲彼女自身が選んだもので、自身の能力を最大限に発揮できると確信し挑んだ録音だった。
ジャズレーベル”ヴァーブ”との契約が切れコロンビアへと移籍が決まった第1作目のアルバムである。
だが彼女の声は43歳の年齢とは思えないほどやつれた声で、老いた女性の声に近かったのだ、誰もが口を揃えて彼女の歌を詰った、艶もなく、しわがれた声だと。
そんな非難の声が絶え間なく続いていたとしても、私はビリーの声が抑制の効いた老成のように思え、盤が擦り切れるほどこのアルバムを聴いたのである。
ビリーは麻薬とアルコール漬けの毎日、その上離婚という精神的痛苦ものしかかっいた。
円熟期はとうに終わり身体は悲鳴を上げ、腕は注射針の疵がはっきりと残っていた、今にもろうそくの火が消えそうな弱々しい身体だったのだ。
それでもそのアルバムを引っ提げイタリア、フランスとヨーロッパツアーを敢行、最初の国イタリアではプーイングの嵐が飛び交い、公演は途中で打ち切られてしまう。
方やフランスではなんとか持ちこたえたものの、ビリー自身の肉体は疲弊しきっていたのだった。
憔悴の中、パリのとあるクラブから声が掛かりピアニストのマル・ウォルドロンと共に出かけていった。
ツアー公演とは違い、クラブのお客たちはビリーの唄声に聴き惚れアプローズの渦で埋まった、その渦の中にはシャンソンのジュリエット・グレコやセルジュ・ゲンスブールもいたと言う。
ツアーは辛酸を舐めたが、クラブでの成功はビリーにとって瀕死の匂いを打ち消してくれるようなセッションであっただろう。
しかし喜びもつかの間、ビリーの身体はどんどん蝕まれていくのだった。
ビリーは生まれながらにして死の影がつきまとう人生だった、出生の秘密もしかり、故に家族の愛情に飢え、幾多の試練を味わった。
そんな寂しさから逃れるために酒や麻薬に溺れ身体をいじめていく様は痛々しい、何度も死の淵を彷徨っていた……まるで棺の上で生きたような人生に思えてくる。
それでもビリーには歌があった、類まれな才能を授かったビリー。
優れた歌心と歌声を与えられ、あらゆる”歴史”を引きずりながら幕を閉じた。
そして、彼女の真価が認められたのは、その死のあとだった。