No name No brand モダニズムのノームコア旋風

とある雑誌に、アメリカの2014春夏ファッショントレンドは”ノームコア”と書いてあった。

ノームコア……聞いたこともないカタカナ用語、読むにつれてその意味となる原語を知った。

Normcore、どうやらNormalとhardcore(理論の核となる仮説のこと)の造語らしい、個性の強いファッションブランドはもはや古くさく、普通が格好いいと言う意味らしい。

あるところではノームコアを究極の普通と訳していたが、どうもしっくりこない、そもそも何の変哲もないに物に究極をあてがうこと自体日本語として違和感を感じる。

突き詰めれば、ポストファッションブランドってことになるのだろう。

しかし世の習いとしてファッションは不易流行であり、タグに名が付いていればすなわち価格帯の高低はあるにせよ、また低価格を売りにした物がトレンドとなったりする、その典型がユニクロであり、今回のノームコアはこれに近いのだろう。

日本に於いて80〜87年はDCブランド第一次旋風が巻き起こる、また肢体の輪郭をなぞるようなボディコンシャスもあった、街はモード一色となり尖った衣服が登場し一種異様な空気が日本を覆っているような時代だった。

泡という時代に浮かれ、人は浮き世の甘美な匂いを仮初めにも味わった、そしてその狂気にも似た時代はたちまち泡と消え、擬似的審美眼は幕を閉じた。

経済というモンスターが国の繁栄を左右する、人はその動向に一喜一憂し、泡の再現を夢見ていた。

だが、泡の反動は予想以上に長引き、人の方向舵は外海ではなく内海へと向かっていった。

そして今、一時代を狂騒の世界へ包み込んだ”名前入りのファッション”は山の裾野辺りに腰を下ろし次の獲物獲得のために算段をしているのだろう。

強烈なアイデンティティを引っ提げ果敢にモード界を揺るがしたデザイナーたち、気がつけば残っているのは数名のデザイナーのみである。

私はいまでも僅かに残ったデザイナーの内の1人に肩入れし、時代の潮流から外れた衣服をいまもなお愛用している。

古くさくても良い、そのデザイナーの意識下にある理念が当方の感覚にピタッと収まる、それは今も変わらず自身を刺戟し鼓舞するのに充分である。

いずれにせよ、ファッションという概念がいま大きく変わろうとしていることだけは理解できる。

さてそのノームコアで名を挙げた人物が、あのアップル社の創業者のスティーブ・ジョブスだという。

なるほど”リベラリズムの知の巨人”、新製品が出るたびジョブスの出で立ちはジーンズにハイネックセーター、そしてスニーカー、それがまたカタチになるから心憎いところだ。

ジョブスの評判は良くも悪くも世間に知れ渡っていた、しかし彼は独自の目線で世界をアッと言わせ、あらゆる人たちを虜にし、限りある人生を全うした。

私もアップル信奉者だ、だからどうしたと言われるかも知れないが、PCの世界で言えば少数派に入る、だが服装はかなりベタだった、決して大衆に阿ることなく我が道を行くスタイルであったのだろう、この辺りは計算ずくだったのか……いやそうではないだろう。

ジョブスのライフスタイルそのものが、シンプルに徹していた、食事は肉食ではなくベジタリアン、一時期騒がせたスローフードにスローライフ、それを地で行く感じだった。

あのシンプルな装いが彼流のおしゃれであり、それが彼のトレードマークであった。

裃を纏ったジョブスでは画にならないと思ったのだろう、一時ネクタイ姿で登場する場面もあったが、アップルはアカデミックが似合わない。

ノーネクタイにノーブランド、それがアップルだというイメージを彼の中で確立した。

尤も正確にはノーブランドではない、ジーンズもリーバイスであったし、スニーカーもニューバランスの”ブランド”であったが、そのモノ自体高額なものではない、リーバイスだってビンテージ物を穿いていたわけではなかろう。

ニューヨークを中心にノームコアと言う言葉が走り出した、当初このトレンドを発信するのはファッションジャーナリストたちの仕掛けではないかと訝ったが、ニューヨークの住民たちは華美を求めるのではなく、ごく普通の暮らしに焦点を当てたライフスタイルこそ一番おしゃれなのだと気づいた、これもアメリカ的といえばアメリカ的。

世界はどんよりとした雲の中にいる、いつになれば紺碧の空が戻ってくるのか分からないが、その手始めにアメリカ国民が”没個性”を唱えだした。

あれほど自分を主張する国民はいなと思っていたが、今回のノームコアで世界が”普通”の国になれば、とそんなことが頭を掠めた。

 

関連記事

アーカイブ

ページ上部へ戻る