ギュスターヴ・カイユボット ~遺書に描かれた未来図

遺言状を書こうと思った。

難しく考える事はない。

自筆で全文を記し、名前と日付を書いて押印するだけで良いのだ。

私には遺せる財産などないが、お気に入りのCDと大量の画集の行方ぐらいは自分で決めたい。

それは大切な誰かが、私が愛したメロディーやアートに癒される未来を想像したいから。

マイルス・デイヴィスのCDは、一番大切な書籍ルイ・マルの自伝と一緒に長兄に持っていて欲しい。

スティーヴィー・ワンダーの『STAY GOLD』が収録されたCDは、思い出と共に次兄に託したい。

きっと二人で何度も観た映画を思い出してくれるはずだ。

不思議なことに、遺言を考えて真っ先に思い浮かんだのは長らく会っていない兄たちだった。

 1876年11月1日、ある青年が死んだ。

彼の死は、美しい未来図を誕生させる一役を担った。

青年の名は、ルネ・カイユボット

未来図を描いた画家の名はギュスターヴ・カイユボット

印象派の画家に数えられるが、その活動期間は短く作品数も少ない。

それゆえ最近まで正当な評価をされずに美術蒐集家として捉えられてきた。

仲間である印象派の画家たちに返済を求めることなく多額の金銭的援助をしたり、作品を購入することで支援したり、彼はパトロンのような存在だった。

カイユボットは弟ルネの死をきっかけに遺言状を書いた。

そこには自らが集めた印象派の名作を国に寄贈し、美術館に一括で展示されることを望むと記されていた。

彼の死後、当時まだ美術的価値が認められていなかった作品群の寄贈は受取拒否され、長く続く騒動となる。

カイユボットの遺言状は、夢のような印象派の未来図だった。

 

屋根裏部屋や地方の美術館に置かれるのではなく、リュクサンブールへ、そして後にはルーブルへ収められることを切に希望する。(1876年の遺言より抜粋)

※補足:リュクサンブールとは、リュクサンブール美術館のこと。

当時の近代美術館。

 

 そんな夢物語を実現できるとは思わなかった人も多かっただろう。

遺言執行人となった弟マルシャルと友人ルノワールが尽力し、2年後に約40点がリュクサンブールに寄贈を受け入れられた。

このカイユボット・コレクションを巡る争いは、当時マスコミや民衆を巻き込むスキャンダルとなりカイユボット事件と呼ばれている。

そして現在、遺言に描かれた通りに印象派作品が一堂に集まった夢の展示室がオルセー美術館に存在する。

 

 ギュスターヴ・カイユボットは、1848年パリに生まれた。

繊維織物商を営む大変裕福な家庭で、何不自由なく育つ。

父は別荘の敷地内に教会や果樹園を作れるほど広大な土地と財力を持っていた。

51年に弟ルネが誕生し、続いて53年に弟マルシャルが生まれた。

他に15歳年上の異母兄アルフレッドもいるが、58年には聖職者になっていたため一緒に過ごした時間は短かったようだ。

3兄弟はみな容姿端麗で大変仲が良く、芸術を好んだ。

特にギュスターヴマルシャルは芸術以外でもボートや切手蒐集などの趣味が同じで、弟が結婚するまで兄弟は共に暮らした。

カイユボットは22歳で法律免許を取得した後、画家レオン・ボナのアトリエに通うようになる。

1873年にボナの弟子として、エコール=デ=ボザールに入学した。

父は息子がアカデミー画家になることを望んだ。

しかしそんな父が翌年のクリスマス・イヴに他界し、莫大な財産を遺す。

父の期待から解放されたギュスターヴ・カイユボットは資金と自由を得て、この頃より印象派作品の制作に専念した。

印象派展には第二回から参加した。

第五回まで連続で参加し、展覧会の運営にも積極的に関わった。

多額の資金提供もしていたため、カイユボットの展覧会と揶揄されるほどであった。

しかし印象派という枠に拘るカイユボットは、ドガや他の画家との衝突が続いた。

第五回から参加したゴーギャンは遠慮ない態度をとった。

徐々にカイユボットは孤立してしまう。

結局、第7回を最後にカイユボットは印象派展から退いた。

真っ向から衝突し合ったが、カイユボットドガの画家としての才能を心から認めていた。

どれほど喧嘩をしても、どんなに腹立たしくても、作品は素晴らしいと評価して幾枚も作品を購入している。

ドガカイユボットは作風も似ているが、生い立ちにもいくつかの共通点がある。

どちらも家柄が良く、同じ学校に進み、法律を学んだ。

しかしドガはブルジョワを嫌い名前まで変えて貧しくても画業に専念したが、カイユボットは莫大な財産を自由に使いながら絵画を含めて興味あること全てを楽しんだ。

恐らくドガにとっては、気に入らない存在だったことは容易く想像できる。

カイユボットが印象派展に初めて参加した1876年、悲しい別れがあった。

元より病弱だった弟ルネが26歳でこの世を去ったのだ。

二日後、カイユボットは初めて遺言状を書く。

それが前述の一節である。

コレクションはまだ少なく、画家としても蒐集家としても活動を始めたばかりだったが、遺言には既に壮大な未来が綴られていた。

77年から弟マルシャルと切手蒐集を始め、ボートにも熱中した。

親しい友人のルノワールが行っていた事業にも出資するが、翌年には多額の負債を残して事業は失敗。

皮肉にもそんな時期に母セレステが他界し、再びカイユボットは莫大な資産を手にする。

彼は生涯、経済的な苦労とは無縁だった。

1882年の印象派展を最後に出品及び運営から手を引くと、パリを離れてセーヌ川岸のプティ=ジャンヌヴィリエの邸宅に移り住んで気ままに暮らした。

ボートを愉しみ、園芸に励みながら美しい風景や庭の花々を描くなど画家を続けていく。

1894年、庭で作業中に脳溢血で倒れ、しばらくの闘病後に45歳の若さでこの世を去った。

計算された構図、美しい色遣い、静かな室内画とボートや川など屋外を描いた動的な作品。

本当に魅力的な絵画をいくつも制作したカイユボットは、近年まで画家としては評価されなかった。

その理由の一つは、金持ちの道楽という印象が拭えなかったことかもしれない。

私が知る限り、カイユボットは末弟マルシャルと共に莫大な財産を惜しみなく使って趣味に生きた人物だ。

正直に言ってしまえば、大金持ちのニート兄弟といったイメージである。

マルシャルの職業は音楽家や写真家と言われたりするが、音楽活動については資料が乏しく判断できないが、写真家としては主に家族や友人たちのスナップ写真を撮っていたようだ。

彼の撮影した写真を全て見たわけではなくとも、写真家と呼べるものか疑問に思う。

人生の大半を己の楽しみの追求に費やした兄弟の生き様を考慮すると、ギュスターヴ・カイユボットを職業画家として認めることには多少の年月が必要だったのではないかと私は思う。

 

 先日、懐かしい町を訪れたついでにお気に入りだった文具店に立ち寄ってみた。

手前の明るいフロアには色とりどりのファンシー文具が飾るように陳列され、パステルカラーのポップが売場を一際賑やかにしている。

奥の薄暗いエリアには事務用品が陳列というより収納に近い状態で隙間なく納められている。

以前と変わらず手抜きを一切感じさせない店内は、気持ちが良い。

折角の機会なのでシステム手帳を新しくしようかと思い、どちらのエリアにあるか探してみた。

店内の明暗を分ける棚に、アドレス帳やスケジュール帳は並んでいた。

棚の左端にレモンイエローのポップが見えた。

家計簿か日記帳の類かと思ったが、ポップには重々しい筆文字で何やら綴られていた。

急に気分が悪くなり、墨色の文字から逃げるように店を出た。

やるべきことが沢山ある。

過去に浸るよりも、まず今日と向き合わなければいけない。

帰りの電車の中、心が急いて座っていることさえ苦痛を覚えた。

午後の気怠い日差しも、音もなく流れ去る踏切や看板も、何もかもが穏やか過ぎて無意味な幸福に思えた。

沸き起こる焦りは、店で読んだ言葉がきっかけだろう。

― 大人気の『エンディング・ノート』再入荷しました。大切な人に余計な負担をかけないため、今から用意してはいかがでしょう。「早い」という事はもうありませんよ。 ―

ザワザワと気持ちを波立たせるには十分な台詞だった。

昨日や今日さえも上手に終えられずにいる自分に、終焉のために行動しろというのか。

人生を閉じる準備を勧めるメッセージは、今の私には少し重すぎる。

カイユボットは、弟ルネが亡くなった二日後に最初の遺言を制作した。

この時ルネは享年25歳、ギュスターヴは27歳だった。

健康な青年が20代で遺言状を書くというのは、かなり早い気がする。

察するに弟の死は大きな衝撃を与え、自らの終焉を考えさせられる出来事だったのだろう。

画家が最初の遺言状に書いた希望は、印象派の展覧会を行うために遺産を使う事、自らが収集した印象派作品を国に寄贈すること。

そして寄贈した作品が美術館に展示されることだった。

それから7年後、いくつかの条件を追加した。

恋人に終身年金を毎月支払うことと、事業に失敗したルノワールを自分への借金から解放する事、弟マルシャルに株と不動産を全て渡すことなど。

更に6年後の1889年には、恋人にプティ=ジャンヌヴィリエの邸宅を譲ることを追加している。

3度目の遺言状を書いた5年後、45歳で画家が亡くなった。

兄の夢を実現する為に、弟マルシャルルノワールと共に遺言執行人として熱心に動いた。

当初は寄贈を断られた作品群、今ではオルセーの主軸といえる印象派コレクションとなっている。

カイユボットが生前思い描いた未来図は、長い時間を要してついに実現した。

私は、カイユボットの最高作はこの遺言状に思い描いた未来かもしれないと思う。

早くから印象派の価値を認め、財産を投じて画家を支援し、印象派展を支援した。

作品が失われたり各地に散らばったりすることを防いだ功績も大きい

。全力で今を生きたカイユボットの視線は、いつも真っ直ぐに未来に注がれていた。

彼の瞳には、遠い未来さえも見えていたのかもしれない。

遺言は、自らの終りを見て綴るものではないのだ。

未来を見つめて今を精一杯に生きるために、書くのかもしれない。

遺書と遺言は似ているようでそれらは異なる。

死に向けて書く遺書と、未来に向ける遺言。

カイユボットのように大切な物が未来を生きるために言葉を遺すことができたら、どんなに幸せだろう。

私は、死の下準備のように思えたエンディング・ノートに強い嫌悪を覚えた。

しかし未来に向けた遺言状ならば、そろそろ一通書いてみたい。

まずは兄たちに心に響く音楽を贈ろう。

遺言とは英語で「will」という。まさに未来ために綴るものなのだ。


 

ギュスターヴ・カイユボット(Gustave Caillebotte)

兄弟と印象派展にまつわる略年表

 

(1848年8月19日フランス パリ―1894年2月21日フランス プティ=ジャンヌヴィリエ)

 

1848年 繊維織物商を営む大変裕福な家庭に生まれる。

1851年 弟ルネ、誕生。

1853年 弟マルシャル、誕生。

1957年 リセ・ルイ=ル=グランに入学。

1870年 法律学校を卒業し免許取得。普仏戦争に参加し、レオン・ボナのアトリエに出入りするようになる。

1873年 エコール=デ=ボザールへ入学。ボナの友人であったドガや、同級生のルアールを介して、後の印象派の画家たちと知り合う。

1874年 父マルシャルが亡くなり、莫大な遺産を相続する。

1876年 第二回印象派展に参加。弟ルネが他界。20代にして初めての遺言を作成する。

1877年 第三回印象派展参加。

1878年 母セレステ、58歳で死去。分割相続でまとまった財産を手にする。印象派作品の蒐集し、自らも画業に専念。仲間の画家たちにとってパトロンのような存在となる。

1879年 第四回印象派展参加。

1880年 仲間と衝突しながらも第五回印象派展には参加。資金提供もして第2回より積極的に参加していたが、ドガや他の画家たちとの意見が合わずにいた。

1881年 セーヌ川の畔に土地を購入し、後に永住して画業を離れて庭作りや切手収集に没頭。趣味が高じてヨットまで作っていた。この年に開催した印象派展には不参加。

1882年 第七回印象派展が例年より一ヶ月早く3月に開催。これ最後にカイユボットは退く。

1883年 遺言を補足。

1886年 最後の印象派展、第八回が5月に開催される。カイユボットは不参加。

1887年 弟マルシャルが結婚。

1889年 遺言状に再び補足を加える。

1894年 自宅の庭で趣味の園芸作業中に脳溢血のため他界。(享年45歳)

 

1896年 一部の作品のみ(約40点)リュクセンブール美術館に展示されることとなる。

1928年 遺言書の希望がついに叶い、全てのコレクションの寄贈が受理された。

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