瀧口修造の残像とコラージュ・ロマンの融合

アート関連のファイルを捲っていると瀧口修造の”夢の漂流物-同時代・前衛美術家たちの贈物1950~1970”の半券が床にこぼれ落ちた。

会期は2005年2月5日~4月10日と印字されたチケット、世田谷美術館で催されたものである。

瀧口修造の個展をいつも見逃していたため、期待に胸膨らませ出かけて行ったことだけは鮮明に覚えている。

だが時は記憶を置き去りにする、9年前ともなると展示空間にどんなものがあったかさえもいまや朧気となっている。

その朧気の中で明滅する残像があった、それは瀧口のデカルコマニー(decalcomania/転写画・シュルレアリストのオスカー・ドミンゲスが始めた技法)連作100点”私の心臓は時を刻む”だった。

デカルコマニー、絵具やインクを混ぜた紙に別の紙を挟むことによって偶然に図柄が生まれる手法を言う、瀧口が描くものは心理テストのロールシャッハ・テストを想起させ、また微生物の変容とも思える、そこから滲出する色彩や図柄は見てはならぬ人間の奥底をのぞき見たような感覚に襲われる。

それは見る側に否応なし意識を惑乱させる魂胆なのか、はたまたそのカタチや色はもしかすると瀧口自身も説明が付かないほど有為転変に満ちているとでも言いたげな実験性の強い作品だった。

サブタイトルにあるように作品は60年以上も前のもの、物質的側面よりも観念性・思想性を重視し,記号・文字・パフォーマンスなどによる表現を目指す芸術、まさにコンセプチュアル アートの先駆けと言える。

瀧口修造(1903〜1979)、シュルレアリスムいち早く日本に紹介し、実験性を全面に打ち出し多くの美術家にあるいは新進の作家たちに影響を与えてきた詩人であり美術評論家であった。

では、シュルレアリスムとは一体何か、その一端を瀧口が著した”点(みすず書房)”にかような文章が綴ってあった。

“シュルレアリスムとは何か、フランスで起こったこの運動とどこが(日本に於いて)違うのか、といった問題は別に検討を要する。

しかもたとえば立体派やフォービズムと日本の現代絵画との関係を考える以上に複雑だろう、というのはこのイズムは絵画の様式というよりも、詩や思想上の運動までわたっているからである。

そんなわけで、私は問題を単純にするためではなく「超現実」という観念が日本の現代絵画に入ったことをまず率直に認めることから出発するほかないと思う。

事実、狭い国土で渦巻いていた巨大な暗流をうけとめるのにせい一杯だった。

それにしても絵画の中に、人間の外部ではなく内部の風景や出来事を表わすことをまず求めたのは高く評価されるべきだ。

この素朴な動機は人間を全体としてとらえようとする原始以来の芸術の記憶につながるものだからで、それはまた究極ではシュルレアリスムの本質ともへただるものではなかろう”と。

60数年前に突如として現れたシュルレアリスム、絵画に留まることなく文学や哲学までも及んでしまうことに瀧口はある種の戸惑いを見せながらも、シュルレアリスムという潮流が本土に漂着したことにより日本絵画が大きく変貌していくことへの期待感がこの文脈から窺えるのであった。

世田谷美術館で開催された展示物は、多くの作家や友人たちから贈られた作品やオブジェなどで溢れていたが、それはまさに夢の漂流物そのものであった。

先日荻窪にあるギャラリーで岡上淑子(おかのうえとしこ)さん(86)のコラージュ作品を見た、それは前段で書いた瀧口修造との縁に繋がる。

岡上さんはコラージュ作家として活躍され、その作品はシュルレアリスムの代表的な画家マックス・エルンストを彷彿とさせた。

岡上さんは結婚を機にコラージュ作家としての活動は6年間という短い期間であったが、その作品は写真表現(雑誌から顔や手足などを切り抜いて合成する)を軸としたコラージュでコンサバな美術という枠から抜け出た自由に遊ぶ散文詩のようにも思えた。

エルンストを思い浮かべたのは言うまでもない、瀧口が見せてくれたエルンストの画集に衝撃を受け、中でも”百頭女”のコラージュは岡上さんを虜にした。

瀧口修造との出会いは、武満徹の夫人(短大時代の学友)を介し紹介されたのが始まりだという。

瀧口からの触発は大きく、また瀧口も彼女の作品に強い関心を寄せコラージュ制作を大いに薦めたという。

アート活動は6年間と短い期間であったが、彼女は多くの作品を残した。

そのコラージュは、東京国立近代美術館東京都写真美術館栃木県立美術館高知県立美術館ヒューストン美術館などにコレクションされている。

Natureというタイトルのコラージュ作品、海上からふっと飛び出て馬に跨がるウエディングドレスを着た女性、どこへ向かうか分からないが、抽象と幻想の真っ直中に落とし込むその技法とイメージが、映画”The Cell”の一場面を思わせた。

というより、監督のターセム・シン自身が彼女の作品に感化されたのかも知れない、と思うほどその世界に這入り込んでいた。

彼女の自由自在なイメージの組み合わせは、こちらの追随を許さないほどに視覚的世界の幻惑に引きこまれてしまった。

 

 

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