休符を打ったチェリスト、青木十良

寝室に向かおうとしたとき携帯にメールが届いた。

”誠に残念なお知らせです。青木十良さんが逝去されました”

時刻は深夜12時を指していた。

文面はさらに続く、葬儀が既に近親者で済ませていたこと、訃報の知らせを遅らせた理由などが書かれていた、メールの主は青木のCDをリリースしてきたN&FプロデューサーのN氏だった。

いつかはと覚悟はしていたものの、深夜の知らせに心がどよめき喉の奥が湿潤をなくしたような失望感で一杯になった。

帰らぬ人となったのは9月8日、その6日後に知らせが届いたのである。

自宅で息を引き取ったことが幸いだった、殆どの人が病院で迎える中、家族に看取られ黄泉の国へと向かったのだから。

直ぐにでも青木宅へ赴き故人にご挨拶をしたい、その希いは強いのだが未だ叶えていない。

N氏によると現時点では、お弟子さん対象の追悼の会は計画されているようだ、一般を対象とした忍ぶ会は未定だという。

 

7月12日で99歳を迎えたばかりの青木十良、100歳まで1年……長生きすれば良いというものではない、たまたま青木の人生が長寿であったということだ。

長寿国として名を馳せる日本、その中でどれくらい幸せな人生を送れた人がいるだろうか。

青木は恵まれた環境の中で育った、だがチェリストになるまでの道のりは険しく多難とも言える生涯だった。

青木のチェリストとしての才能は周知の事実だが、日本に於いてはその才能を開花するには時間が掛かった。

80を過ぎ、やっと青木の名が知られるようになった、それも1人の音楽プロデューサーの手によって眠れる奏者の弦に花が咲いたのである。

 

2年前に上映した”自尊を弦の響きにのせて”以来お会いしてなかった。

家族に電話をすると、7月に入って体調を崩し自宅で静養中と、早く快復されることを祈り電話を切ったばかりだった。

数年前までは1日最低でも4時間はチェロと向き合い、譜面を読み解くように練習をしていた、恐ろしいほどの集中力、その中で芸術に求めるものはエレガンス、つまり自尊と言う言葉に行きついた。

青木自身の造語である、どんなに美しい音色を出せたとしても自尊を失えばただの音色でしかないという。

青木はエレガンスを優雅や気品という意味以外に新たな言葉を創った。

自尊……矜恃やプライドとは一線を画す言葉だ、言うは易し、だがその言葉に辿り着くまでに青木は90年の歳月を要した、けっして凡人からはそんな言葉は生み出せない。

それを裏付けるように、かつてヨーヨーマが学生の頃、青木十良が奏でる音を聴き、チェリストを目指したというエピソードがあるくらいだ。

仮にヨーヨーマが青木のチェロを聴かなければ、ヨーヨーマは違う途を歩んでいたかも知れない。

 

電車で4駅先に青木十良宅がある、すぐ行ける場所なのになぜか行けない、企画時には図々しくも毎日のように通っていたのに、それが終わってしまうと足が遠のく。

遠のくというか、こちらの思いだけで玄関先へ訪ねると言うことはできない。

それも撮影中はかなり心労もおありであっただろうし、その重荷から解放されほっとしているだろうと類推したりもする、しかも友人という間柄でもない故、おいそれと声をかけることは出来なかった。

7年もの歳月を掛け青木十良を追いかけ、やっと映画完成まで漕ぎ着けることが出来たことは幸いであったが、元々この企画はテレビ企画から始まったものだ。

その話が局との間にミスリードというか、いろいろかき回され映画上映と化けた、そう化けたと言った言い方が一番ピッタリだ。

尤もその上映に至るまでの苦労、つまり文科省との膨大な書類の手続きやら交渉ごとはかなり大変だったとプロデューサーから後になって聞いた。

こちらは呑気に”テレビは再放送があったとしても2回止まりしかもライツは局側になってしまう、映画なら津々浦々巡回できるし映画の方が面白いよ”と無責任に喜んでいただけだった。

プロデューサーに感謝せねばこの映画は頓挫していたに違いないと思う、そのような経緯の中で上映を迎え、客足はこちらの予想外の展開となり客席を誘導するのにてんてこ舞いだった。

都内での上映が終わり、名古屋、京都、大阪、神戸、徳島、長野と映画は巡回していった。

評判は地域差がでた、それも重々覚悟の上だ、柳の下にドジョウはいないのである。

プロデューサーは映画が巡回する度にそこへ赴き、地方メディアへのパブ併せて上映に立ち会っていてくれた。

地方に住む一般の方たちから上映のラブコールがいくつか飛び込んでくるのだが、それを達成するにはいろいろな条件が必要となってくるため簡単には行かず、製作会社も私も隔靴掻痒の思いであった。

そんな日々が続く中、今年の4月初旬頃に福岡の某音楽事務所の女性代表からメールが届いた。

”どうしても青木十良の映画を上映したい”とプロデューサーの下に連絡が入ったのである。

篤いメールだ、”どうしても”という言葉、この数十年聞いたことがない。

美辞麗句をあれこれ並べ立てるより、はるかにシンプルでしかも心にぐっと来るフレーズだ。

女性代表はどこで映画をご覧頂いたか分からないが、このような熱烈コールがあちこちから掛かれば嬉しいのだが、そうは問屋が卸さないのがこの世の中だ。

福岡はクラシックが根付いていないと、女性代表は言う。

だがそれは福岡に限らずクラッシックはどの地方も失礼ながら根付いてはいないと考える、クラッシックファンと言われる人口は、日本全人口の1パーセントにも満たないと言われている。

がしかし、それでも世界の名だたるオペラ歌手やピアニスト、バイオリニストとなればどこからともなくクラシックファンはどっと押し寄せ、少数派というレッテルも嘘に思えてくる、なんとも皮肉な話である。

その福岡にある音楽事務所のウェブには、こんなことが書かれていた。

“知名度のあるなしに関わらず、「この人の演奏を一人でも多くの人に知っていただきたい!」と閃いた演奏家を中心に今後いろいろと企画してまいります。

良い演奏家を育て、福岡のクラシック音楽の土壌を豊かにして下さるのは、クラシックのみならず幅広いジャンルの音楽を愛し、音楽のみならずその他の伝統文化や芸能など文化芸術全般を広く熱く愛して下さる福岡の良質の聴衆の皆様なのです。

そのような聴衆の皆様と、日々研鑽を積み重ねておられる演奏家の皆様とともに、クラシック音楽を通して、至福の時間・空間・感動をわかちあえていけることを心より願います”と、強い意志と信念が漲っていた。

日本ほど幅広いジャンルの音楽がある国はない、だがそれもつかの間、流行廃りは著しく超音速機よりも早く感じてしまう。

願わくば、福岡の音楽事務所のように息の長いサポーターが現れ、その種を全国に蒔いて欲しいと思う。

 

福岡での評判がどのようなものであったかは分からないが、九州に青木の種は根付いただろうか……そして青木は音楽家として99年のスコアに休符を入れた。

 

 

青木十良

1915年7月12日生まれ。

生家は化学薬品の輸入貿易商で、兄弟姉妹はドイツ語やフランス語を学び、音楽や文学などに囲まれた環境に育った。

15歳のころ、出入りのドイツ商人でクレングルの弟子でもあったアーノルド・フィッシャーからチェロの手ほどきを受けた。

終戦の6か月前からNHKに入り、マルティーヌ、プロコフィエフなど数多くのチェロ作品の日本初演を行う。

その後、シュタフオンハーゲン弦楽四重奏団(近衛管弦楽団の首席で編成)で、ヒンデミット、ラヴェル、ブリテンなどの日本初演を行い、室内楽の分野でも新たな道を拓いた。

1990年カルロ・ゼッキと組んだバッハのヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ以来、演奏活動に拍車がかかり、「85歳を過ぎてこんなに勉強するとは思わなかった」とはじめたバッハの録音第一弾(無伴奏チェロ組曲第6番)をきっかに、メディアにも注目される存在となった。

2002年〜2006年には「グレート・マスターズ」(紀尾井ホール)に出演し、美しさを極めた音色で多くの聴衆を魅了した。

現在にいたるまで桐朋学園を中心に、チェロと室内楽などの指導にも力を注ぎ、優れた音楽家を数多く育てている。

2006年、第16回新日鉄音楽賞(特別賞)を受賞。

2009年、ミュージック・ペンクラブ音楽賞(特別賞)を受賞。

 

aoki hads

 

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