音色は聴く人の耳の中にある

シューベルトがこんなにも激しい音楽家だったとは思わなかった、鍵盤から放つ音は鋼鉄の階段であり、強固な自我を想像させた。

秋の調べにふさわしく、気楽な気持ちで王子ホールへ出かけて行った。

曲目はピアノ・ソナタ、シューベルトでまず浮かぶのは室内楽の”鱒”そして”セレナード”位が関の山。

それも学生時代に聴いた程度、いわゆるロマン派と言われる楽曲にあまり関心はなく当初行くのを躊躇っていた。

今回のピアノ曲全曲演奏会はクラシック好きの知人からの招待で、久しぶりの再会を楽しみつつホールへ向かったのである。

ピアノ独演会はこれで3度目だろうか、はるか昔に聴いたヴァレリー・アファナシエフの情熱的な鍵盤を叩く音が懐かしい、もうひとりはルクセンブルクの奇才と言われた、フランチェスコ・トリスターノ・シュリメ。

シュリメは鍵盤の幅いっぱいに広がる流麗な旋律で、大小の弦から放たれるピアノは可憐な花房のような音色だった。

そして3人目が佐藤卓史氏(31歳)、アファナシエフあるいはジャズピアニストのミッシェル・ペトルチアーニを彷彿とさせた。

見かけは物静かな青年のように思え、失礼ながら音楽家特有のインパクトもなかった、だがその予想は見事に覆され、鍵盤を打つ力には圧倒された。

文字で言うなら筆圧が強いとでも言えば良いか、まるでピアノと格闘しているような勢いであった。

クラシックは魅力的だが演者によって意識も変わる、だから時に退屈を覚え睡魔が訪れたりする、それはジャズにも同じ事が言えるがクラシックほどではない。

特に日本での演奏会は窮屈な気がしてしようがない、咳でもしようものなら大変なことになりそうな気配だ。

毎度のことながら、演奏会が始まる前に携帯のスイッチをオフにという場内アナウンスが流れた。

映画館なら御法度を破る輩もいるかも知れない、しかしここはクラシック会場、紳士淑女が集う場所で起こるはずがないではないか(少し大袈裟だったかも知れない)。

いよいよ開演数分前、会場に蝶ネクタイをしたスタッフがスマホをかざし、電源をオフにと物腰柔らかではあるが再度求めてくるのである。

その衣服を見て知人は”宮中での晩餐会の様”と皮肉った。

妙な光景だ、駅の構内でもある、白線の後ろに下がれと……なぜこのように事細かく指示をするのだろう、これから音楽会を楽しもうというのに野暮な水を掛けてくる。

海外で演奏会を聴いたことなど一度もないが、欧米でもこのようなアテンションがあるのだろうか。

やはり、クラシックファンを増やすにはいまだ遠い気がする。

プログラムに”シューベルトツィクルフ”とあった、さてツィクルフとはなんぞや、ドイツ語で連続演奏を意味するらしい。

佐藤卓史氏、そのシューベルトツィクルフ今回で2回目とのこと、第1回は東京文化会館小ホールで、そして今回が2度目の演奏会となる。

佐藤氏が言うには、シューベルトのピアノ・ソナタ15年の歳月を掛け演奏していくそうだ、気が遠くなる話である。

シューベルトどころかクラシックに関して門外漢のため何も知らなかったのだが、シューベルトは31歳の若さで亡くなるまで、作品数は約1000曲以上に及ぶという、同じく夭折したモーツァルトはシューベルトよりも4年長生きし作曲した数は約800曲と言われている、数の多さで才能の良し悪しは控えねばならないがシューベルトは群を抜く。

その中には未完のもの、断片、消失したもの、習作、偽作も存在すると言われている。

コンプリートされているものは11曲、未完あるいは楽章の不確かなものが10曲、さらには1楽章の切れ端が2曲、併せて23曲が世間一般に知られている楽曲数である。

さて、初秋の余韻に浸りながらフランツ・シューベルトのピアノ・ソナタ6番の演奏が始まった、次いでロンド、ピアノ・ソナタ14番、インターバルを挟みピアノ・ソナタ16番がエンディングとなりツィクルスは終わった。

全曲初めて聴く曲だったが、シューベルトのその旋律は荒々しく岩を砕くような印象が強く残った。

静寂な波が流れていたかと思うと、突然嵐の如く鍵盤を叩き付けるその様は、時に現代音楽のようでもあり、あの室内楽のセレナードとは全く別の印象を抱かせる。

シューベルトの出自はウィキペディアあたりで読んでもらいたいが、鍵盤が壊れはしないかと思うほどシューベルトのピアノ・ソナタは凄まじいものを感じた、6番、ロンド、14番、16番、その何れも決して穏やかな旋律とは思えず、この曲がいつ頃のものかは分からないが、晩年の体調不良によるものなのか……それを知っているのはシューベルトしかいない。

死亡の原因もいろいろ喧しくいやな噂が流れているが、確かモーツァルトもそうだった、秀でた者への嫉妬だろうか。

何が原因かは知る必要もなく、曲から迸るシューベルトの情熱を感じることが大事なのだ、音色は聴く人の耳の中にあるのだ。

そのような中で、シューベルトの意志を継ぐような佐藤卓史氏のピアノ、まさに鋼鉄の階段、強固な自我をまざまざと思い知らされた。

1楽章終わる度に彼は息を大きく吸い込み、そしてしばらく宙を睨み鍵盤に手を添え弾き始める、かなりの疲労度だと思う。

思った、弦を弾きそこから響く音色はなまやさしいものではなく、肉体の闘いそのものであった。

前出のミッシェル・ペトルチアーニに近い弾き方だった、生まれながらの形成不全症の障害を持ち、身長は1メートル足らず、だが指先だけは神様が授けてくれたかのような長い指で強く鍵盤を叩く、佐藤氏がペトルチアーニの生まれ変わりかと錯覚するほどに弦の残響が胸にいつまでも鳴り響いていた。

だがペトルチアーニは既にこの世にいない、15年前に多くの女性たちに見守られながら旅立った。

佐藤氏のはじくようなピアノタッチ、それは正確無比そのものだった、クラシックはミスタッチを許されないだろう。

でも敢えて言う、音を外しても良いではないか、もっとリラックスして新たなシューベルトツィクルフを是非目指して欲しいと願うばかりだ。

 

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