三木富雄の”左耳”が脳裏から離れない

以前、竹橋の美術館で”映画をめぐる美術―マルセル・ブロータースから始める”を見た後、館内の別フロアーの常設展へと移動した。

この美術館に来ると必ず見るものがある、それはアルミ合金で作られた”左耳”の彫刻。

他の展示物は立ち止まることなく、絵を舐める程度で済ませてしまう。

だが三木富雄の耳だけは、強い磁場に引き寄せられるが如くその場から動けなくなってしまうのだ。

耳は鈍い光を放つ、アルミ合金で作られたその彫刻は49年前のもの、くすむことなく一種異様なそのフォルムはいまだ生気を失っていなかった。

 

“私が耳を選んだのではなく、耳が私を選んだ”と三木は述べた、アルミ合金やプラスチックなどで左耳ばかりを作り続けた三木富雄、なぜに耳にこだわるのか、それを知りたくて機会ある度に此処を訪れる。

 

身体の中で一番美しいと感じる部位はどこだろう、鼻、手、足、口……女性は別として男はそのようなことを考えたこともないだろう、でも私は子供の時から耳が気になっていた。

耳を見ると、子どもの頃を思い出してしまう、夏休みは必ず海へ繰り出し、そして必ず耳の病気に罹ってしまうのだ。

外耳炎、中耳炎、その度に耳鼻科で治療し当時の辛い思い出が蘇ってくる。

成人を迎えると昔の疵とストレスが相まって耳管狭窄症というやっかいなものに悩まされる、要は耳管の中にカスがたまり目眩などが襲うのである。

医師が言うには煙突掃除のようなもの、病気と呼ぶほどのものではないと元気づけられたが、とにかく耳との縁がなぜか強い。

そのようなことから、男女関係なくつい耳を見てしまう癖がしばらく続いたことがあった。

造形物という視点で耳を眺めると、鼻や口と違って鏡を使っても見えないのが耳だ、もどかしい部位である。

 

三木は徹底して左耳に執しする、そのわけとは何か、”私が耳を選んだのではなく、耳が私を選んだ”と、神の啓示のような物言いだ。

その造形物は、抽象ではなく精緻な造りもの、目を凝らして見れば顔のようにも思えてくる、耳の隆起や陥凹の部分も正確に、耳輪、対輪、耳甲介、耳珠、対耳珠、耳垂などが原子と電子の塊となって不気味さを漂わせ、聞き耳を立てているような気がした。

 

外耳道を引きちぎったその断片は腐食することなく永遠の美を獲得し、来館者たちのひそひそ話を聞き入っている、49年間この左耳はどんな会話を耳目に触れただろうか。

 

三木が執拗なまでに耳シリーズを制作したように、身体の部位を詳細に綴った小田仁二郎という作家がいた。

タイトルは”触手(真善美社/1948)”、それは作品の冒頭から始まる。

 

“私の、十本の指、その腹、どの指のはらにも、それぞれちがう紋々が、うずをまき、うずの中心に、はらは、ふっくりふくれている。

それをみつめている私。

うずの線は、みつめていると、うごかないままに、中心にはしり、また中心からながれでてくる。

うごかない指のはらで、紋々がうずまきからながれるのだ。

めまいがする。

私は掌をふせ、こっそり、おや指のはらと、ほかの指を、すりあわせてみる。

うずとうずが、すれあう、かすかな、ほそい線と線とがふれる感覚。

この線のふれるかすかなものに、私は、いつのまにか、身をしずめていた。

せんさいな、めのくらむ、線の接触……この指は、私のものでありながら、紋々の淵のそこには、ほかのいのちが、ひそんでいるというのか。

すりあわせる線の触感、きずつかない線にながれ、いまもまだながれつづけているもの、それにちがいなかった”

 

この小説は10代の後半に下北沢の古書店で購入したもの、当時は時代のうねりの真っ直中にあり、あらゆるものに対し否定し続け青臭さが抜けきれないでいた。

そんなすれっからしが否定どころかあたふたと血迷うのだ、そして難解さを突きつけてくる、極みの頂点だった。

ひらがなが妙に艶めかしく身もだえするほど衝撃を受け、気持ちは高揚としてくる。

今読み返すと、句読点がやたら多い、点は妖しい息づかいと躊躇いか……満たされない欲求を小説のなかで表現し昇華していったのかも知れない。

 

三木と小田はまったく接点はない、だが2人とも何かに取り憑かれたように懸命に表現していた、非凡の才はうぬぼれと自己愛の結晶物、そこから芸術が萌芽していくのだろう。

あくまでこれは仮説だが、三木が耳に固執していた要因がひとつある。

 

彼は若い頃から芸術家を目指していたが、父親が理容師ということもあり息子に理容師を継がせたかったらしい。

だが三木は理容師など眼中になく、芸術家への道を進もうとしていた、見かねた父は条件を出した、理容師の資格だけ取っておけと。

いわゆる手に職を付けておくということだ、芸術で飯は食えない、転ばぬ先の杖とでも言おうか、息子の幸せを願うからこその言葉だった。

三木は父親の言いつけを素直に受け、理容師学校に入学する。

 

資格を取得した三木は理容師の道へは進まず、美術学校の通信(武蔵野美術大学の前身)で美術を学ぶ。

通信ということもあり、美術の基礎的学習は難しくその殆どは三木自身独学によるものだったという。

美大を出れば芸術家になれる保証はなにもない、三木は美術学校で学ぶことよりも、独学で日々研鑽を積み芸術の域を目指していった。

理容師学校で学んだスキルは無駄ではなかった、髪を切ることよりも耳の存在が三木にとってとてつもなく大きかったのかも知れない、それは無意識裡に芽生えてくるものであり、手先もきっと器用だったのだろう。

だからこそ” 私が耳を選んだのではなく、耳が私を選んだ”と言う言葉も自然の成り行きと言って良いだろう。

三木富雄は耳の彫刻家として名を馳せた、だが三木はそれには満足せずさらなるアートを目指しニューヨークへ飛んだ、そのニューヨークで試みたのはガラクタのオブジェ、コラージュといったものを精力的に作り続けていった、過去から脱却とまでは言わないが、作品は版画や写真にまで及んだ。

世界は三木の新たなテーマを待ち望んでいた、しかしその期待とは反対に40歳という短い生涯で幕を閉じてしまう、三木はニューヨークで模索しなにかを掴んで帰国したに違いない、それは耳を凌駕するほどの作品であった、と思いたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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