ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー ~光を愛した画家の影~

 隠蔽、秘密、逃げ口上がお好みのターナー

「隠蔽、秘密、逃げ口上がお好みのターナー」とは、過去の展覧会カタログに美術史家が綴った言葉だ。

英国を代表する画家に対して、随分と手厳しい評価をするものだと驚かされた。

私がターナーといわれて思い浮かべるのは、美しい風景画の数々。

海辺を描く穏やかな風景画や、海上の嵐や山岳の雪崩を描いた臨場感溢れる作品、光が湧きだすような画面や朧げで淡い色彩などなど。

そのような作風からイメージすると、物静かでアカデミックな英国紳士とか、色彩や光線を飽くことなく探究する職人気質の人物とかであろう。

しかし残念なことに、ターナーの人物像については悪い評判が多いことも記憶している。

もちろん名作を生み出す天才は、決して善人や好人物ばかりではないのも事実だ。

果たしてターナーはどのような素顔だったのか。

イギリス・ロマン主義を代表する巨匠の横顔を、彼が歩んだ人生の中に探してみた。

 

 

「真の師匠」との出会い

1775年、ロンドンでターナーは生まれた。

父は理髪店を営んでおり、母メアリーは、父より6歳年上の姉さん女房だった。

ターナーは子供の頃から絵が得意で、近所でも評判だった。

父は我が子の描いた絵を洗濯ばさみで挟んで店の窓に飾っていたという。

幸せな日常が崩れたのは1783年、妹メアリー・アンの死だった。

この頃から、母は感情のコントロールができなくなっていく。

それゆえターナー少年は、10歳で叔父の家に預けられた。

そこで近所の日曜学校などに通うが、勉強はあまり得意ではなかったという。

川沿いの町の風景は美しく、生涯の良き友ヘンリー・スコット・トリマーとの出会いもあった。

しばらくして生家に戻るが、すぐにまた別の親戚の家へ預けられる。

こちらは海辺の町で、素晴らしい景色が至る所にあった。

気に入った風景を描くうちに少年の腕前はさらに上達した。

やっと両親の許に戻った頃には12歳になっていた。

当時ターナーは建築家に憧れていたが、父は息子の絵を見て理髪店のお客たちに「息子は将来画家になるだろう」と話した。

父の予想に反して建築家のもとで製図工の仕事を得たのは、まだ14歳の時だった。

その仕事を通じて画家トマス・モールトンと出会う。

モールトンから絵画を習い、彼に導かれてロイヤル・アカデミー附属の美術学校へ進学を決める。

後にターナーは、画家モールトンについて「私の真の師匠」だと語っている。

 

 

最年少の光と影

1789年、最年少でロイヤル・アカデミーの美術学校に入学したターナーは、順調に画家への道を歩み始めた。

5年後には生徒に素描を教えるまでに成長したし、10年後には最年少でロイヤル・アカデミー準会員になった。

1802年にロイヤル・アカデミーの正会員になり、遠近法の教授職に空きができるとすぐさま志願してその座に納まった。

また進学後すぐに実家の近所で一人暮らしを始めたが、アカデミーの準会員という成功を手に入れると生家近くを離れ、転居先には住居と並んで自分の画廊を構えた。

その後も受注やパトロンに困ることはなく、アカデミックな作風から劇的な風景画、光や色彩を追求した晩年の作品へ、時と共に作風を変えていった。

こうした経歴上は何も苦労せずに成功を手にしたように見えるが、強い光が射すところには濃い影がある。

この頃ターナーには、逃げ出したい現実があったのだ。

それは心を患った母の存在である。

幼い頃に親戚に預けられたのも母親が精神不安定だったためと推測されるが、その後も状態は悪く1800年には精神病院に入院して不治の病と診断される。

数年後、彼女はこの病院で亡くなった。

ターナーが描き貯めた作品を並べて自身の画廊をオープンしたのは、母の死から三日後の事だ。

家族の傍に居ることが辛かったためにターナーの足は、必然的に外に向いたのではないかと私は思う。

美術学校に入学した年から彼は何度もスケッチ旅行に出た。

日に40キロも歩き、安宿か親戚や知人の家に泊まり、各地でスケッチブックに向かった。

暗い影から逃れるように休むことなく、陽光の中を歩き描き続けた。

その成果が画家としての栄光だった。

 

 

岩山王子 

作品の評価は高くとも、性格や風貌についての評判は良くなかった。

例えばスケッチ旅行では幾度も他人の家で世話になっているが、社交的に振る舞えなかったようだ。

宿泊先の家族に感謝の態度も示さず、黙々とスケッチブックに向かっていた。

寡黙で気難しく、教養もなければマナーもなかったと言われている。

実際にターナーは少年期に学校や家庭で教育を受けていない。

それゆえ教養やマナーに乏しいという評価は、紛れもない事実だろう。

父の友人宅に滞在していた時には、岩山王子というあだ名をつけられた。

その理由は、ゴツゴツした岩が突き出た峡谷の湖畔で一日のほとんどを過ごしていたからだという。

このあだ名からは、自然と対峙し熱心に努力する若き画家の素顔も表れているように思える。

 

 

おかしな小粒のお方

ターナーのあだ名は他にも幾つかあるが、「おかしな小粒のお方」というのが私のお気に入りだ。

これは風貌を的確に表現しつつも、揶揄する雰囲気がなく微笑ましい。

ターナーは身長160センチ程度と小柄だが、大足で脚は曲がっていた。

不恰好な鉤鼻と灰色の瞳に、労働者階級を思わせる赤ら顔だったという。

しかし若き日の自画像を見ると、周囲の証言を疑うほど美形である。

これは絵画の方が物凄く美化されているというのが真実で、画家のナルシストぶりが窺える。

生まれつきの風貌はともかく赤ら顔については、勘の良い人なら既にその理由は想像がつくだろう。

10代から多くの時間を太陽の下でスケッチしていたからだ。

日に焼けた赤ら顔は水夫のように見え、晩年は「ブース提督」という異名もついた。

 

 

ブース提督

晩年のあだ名「ブース提督」のブースは、一緒に暮らしていた女性ソフィア・ブースに由来する。

ターナーの人生には、彼女を含め二人の未亡人が登場する。

一人目は、サラ・ダンビー。

二人目がブース夫人だ。

ターナーはどちらとも長く同棲したが、結婚はしなかった。

サラ・ダンビーとは10年以上同棲し、エヴリーナとジョージアーナという娘を授かった。

彼女には前夫との間にも4人の娘がいたが、ターナーはほとんど生活費を払わず、彼女は音楽家の元夫のわずかな年金で家族を養ったという。

当然といえる結果だが、二人は破局を迎えた。

サラと別れて20年後、ソフィア・ブースに出会う。

彼女とはターナーが死を迎えるまで一緒に暮らしたが、ここでも生活費をほとんど払わなかったという。

精神的にも正式な夫婦とは異なっていたのかもしれない。

ブース夫人は何年も夫婦のように暮らしたが、ターナーの葬儀には遠慮をして参加しなかった。

パトロンや顧客に恵まれ、経済的に苦労していたわけではないのにターナーはお金に細かかった。

尋常ではなくお金を好み、支払うことを極度に嫌がったという。

お金への異常な執着は、なんのためだったのだろう。

心理学的に分析れば、母親の病や両親不在の少年時代と関連付けるかもしれない。

フロイトの発達理論支持者ならリビドーの問題とするかもしれない。

守銭奴も浪費家も、どちらも肛門愛期の問題とされているからだ。

もちろんそうした心理的な要因もあるかもしれないが、私は全く別の可能性を考えている。

彼は「ターナー・ギフト」という壮大な計画を思い描いていた。

それは自らの死後、その財産を困窮する画家の慈善基金にするというものだった。

その目的のために財産を貯え、遺言状にも記した。

残念ながらその計画は実現されなかったが、生前ターナーが金銭に執着したのは、ターナー・ギフトのためだったのかもしれない。

 

 

シェリー酒を一杯

強い金銭欲とは正反対の太っ腹なエピソードも多数あるし、性格も穏やかで優しく人懐こいという評判も多くある。

多くを知ればイメージされる人物像は、彼の晩年の作風のように明確な輪郭線を持たずぼんやりしてしまう。

あいにく信憑性の低い逸話も多い。

例えば、ターナー批判に反論して彼を擁護した美術評論家ジョン・ラスキンの伝えた最期の言葉もフィクションだという。

「ターナーは『太陽は神である』と言い残して息を引き取った」とラスキンは伝えたが、これは確かに見事すぎて嘘だという方が頷ける。

最期の言葉が何だったのか今となってはもう分からないが、ブース夫人が遠慮して出席しなかった盛大な葬儀には多くの参列者が集まった。

大量の自作とともに14万ポンドもの財産を遺して、巨匠はこの世を去った。

その日ターナーの画廊で参列者にふるまわれた食事は、ビスケットとシェリー酒のみだったという。

この時のガッカリする人々や驚く紳士淑女を想像すると、私は不謹慎にも思わず笑ってしまう。

画家は生前、シェリー酒を好んだ。

自分の死を悟った時にも、医師にシェリー酒を一杯飲んでくるようすすめたぐらいだ。

それなら私も今夜はシェリー酒を片手に巨匠を忍ぶことにしよう。

 

 

ターナー・ギフト

結局ターナーという人は、作品を多く見れば見るほどその異なる作風が興味深いし、人物について知れば知るほど疑問が生まれてしまう。

それでも幾つかのキーワードと共に人生を考えると、彼は生涯を通じて人間と正面から向き合うことを避け、代わりに自然や風景と対峙し続けたように思えた。

ただし完全に拒絶して背を向けたわけでもない。

彼の周囲にいれば、その時々に見せる横顔を眺めることが出来たのだろう。

今確実にいえることは、彼が美しい作品を描いたこと。

そして後世の画家たちに多大な影響を与える偉大な芸術家だったこと。

ターナーの描いた光や大気や色彩がなければ、印象派の誕生はもっと遅れていたかもしれない。

誹られてまで貯めた財産で画家たちの慈善基金を立ち上げる願いは叶わなかった。

しかし彼が遺した数えきれないほどの作品、それこそが本当の意味で「ターナー・ギフト」になったのだと私は思う。

 

 

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner)の

出会いにまつわる略年表

(1775年4月23日グレートブリテン王国 ロンドン―1851年12月19日イギリス ロンドン)

 

1775年 4月23日(諸説あり) ロンドンでターナー家の第一子として誕生。

1778年 妹メアリー・アンが誕生。

1783年 5歳の誕生日を迎えることなく妹メアリー・アンが死亡。

1785年 約2年間、2つの親戚の家に預けられる。川と海の景色に親しむ。

1789年 叔父の家で初めてスケッチブックに絵を描く。建築家のもとで製図工の仕事を得る。「真の師匠」トマス・モールトンと出会い、絵画の手ほどきを受けてロイヤル・アカデミー・スクールズへ最年少で進学。

1794年 生徒に素描を教え始める。

1799年 最年少でロイヤル・アカデミー準会員になる。初めて戸外で景色を前に油絵(習作)を制作。サラ・ダンビーと交際が始まる。

1800年 年の瀬に、母が精神病院へ収容される。不治の病と診断された。

1801年 この頃、セアラとの間に長女エヴリーナが誕生したと推測される。

1802年 ロイヤル・アカデミーの正会員になる。サインをW.ターナーからJ.M.W.ターナーへ変更する。

1804年 母が精神病院で亡くなる。この3日後、自身の画廊をオープンして自作を展示。

1807年 ロイヤル・アカデミーの遠近法教授を任され、1811年に初講義を行う。(1837年に辞職した。)

1812年 別荘の設計・建築に着手。

1813年 約10年同棲して二人の娘を授かったサラ・ダンビーと破局。

1815年 画廊を訪れた彫刻家アントニオ・カノーヴァーは「偉大な天才」とターナーを評価し、4年後にはローマの聖ルカ・アカデミー名誉会員にターナーを推薦。

1820年 相続した不動産を改築して、パブを経営する。

1829年 9月21日、父が死去。29日に葬儀を行い、翌30日に初めて遺書を書く。

1833年 ソフィア・ブースと出会う。

1834年 ロンドンで国会議事堂の火災を目撃し、その光景を翌年に油彩画に描く。

1845年 ロイヤル・アカデミーの最年長会員となり、病気療養中の会長に代わって会長代理を務める。

1846年 恋人ソフィア・ブースとチェルシー地区の小さな家で暮らし始める。ここでは「ブース提督」という名で知られていた。

1850年 ロイヤル・アカデミー展へ最後の出品。

1851年 12月19日、チェルシーの自宅で死去。(享年76歳)

 

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