世界三大○○というと大抵は2つまですぐに言えて、あと1つがなかなか思い出せない。
例えば料理なら、中華料理、フランス料理、そしてあと一つ。
正解はトルコ料理だ。
宗教なら、キリスト教に仏教、ワンテンポおいてイスラム教と捻り出す。
紅茶なら、ダージリン、ウバ、……。
残るはキーマンである。
不思議なことに、思い出す順番が違うと前回言えなかった1つがサラリと口から出てくるのだが、別の一つが言えなくなってしまう。
そんな経験はないだろうか。
この現象を私は、無知でも記憶力の低下でもなく”脳の抵抗だ”と言い訳している。
個々の魅力は比べようがないのに、勝手に誰かが3つだけ選んでしまったことへ無意識に抵抗しているのだ。
フランス料理はもちろん美味しいが、イタリアンや和食も捨てがたいしタイ料理も大好きだ。世界三大と勝手に括らないで欲しいと、脳や心が抵抗していてもおかしくはない。
同様に私は、マイベスト3を尋ねられても最後の一つで答えられなくなる。
好きな映画ベスト3なら『スタンド・バイ・ミー』、『晩秋』と答えてから、ラスト1つが選べない。
新旧の心に残る名作が、一歩も譲ることなくせめぎ合うのだ。
好きな芸術家でもケーキ店でもそれは同様である。
今回テーマにしたアリスティド・マイヨールは、ロダン、ブールデルとともにフランス近代彫刻の三大巨匠と云われている。
もし好きな彫刻家ベスト3に空席があるようならば、一度鑑賞して損のないオススメの彫刻家の1人だ。
素直に無駄なく表現された女性の美しさは、彫刻にあまり興味のない人でさえ受け入れやすいだろう。
同時代から現代に至るまでに魅力的な彫刻家は多数いるが、ベストを問われれば私は2つ目までに彼の名を口にしたい。
アリスティド・マイヨールは、1861年にフランスの南端、地中海沿岸の小さな村バニュルスに生まれた。
父は織物商で外国へ行くことも多かったため、マイヨールは伯母と祖父に預けられて寂しい少年時代を送った。
早くからデッサンに親しむが、画家を志してパリへ出たのは21歳になってからだ。
エコール・デ・ボザールの入学試験に何度も失敗して、1885年についに合格した。
極貧の学生生活を送る中で、同じ境遇のブールデルと親しくなった。
学校だけではなく美術館にも通い、タピスリーの技術を習得する。
当初は画家を目指しながら、タピスリー制作で生活を支えた。
このタピスリーを絶賛したのがゴーギャンで、彼を通じてナビ派の芸術家とも交流を深めていった。
1893年にパリを離れ、故郷バニュルスでタピスリーの工房を開く。
自らの絵画に満足が出来ずにいたというので、半ば画業を諦めての決断だったのかもしれない。
しかしマイヨールの人生を見ると、いつも失望の後には希望が芽吹いている。
工房で助手として働いていた女性クロティルド・ナルシスと結婚し、ほどなく息子ルシアンが誕生した。
実は、ルシアンも後に画業を志したようだ。
私はまだ実物を鑑賞する機会に恵まれていないが、写真で見る限り力強い筆致や父親譲りの重量感ある人体表現が確認できる。
1900年、マイヨールはタピスリー制作で視力を損ない仕事を続けることが困難になってしまった。
結果、この時期から彫刻に専念する。
1902年、代表作≪レダ≫を発表。
個展会場でこの作品を観たロダンは、『現代彫刻で≪レダ≫ほど見事で美しい彫刻を知らない』と絶賛した。
マイヨールは初期から晩年に至るまで作風を変わることなく、柔らかな女性らしい曲線や滑らかな質感で美しく裸婦の表現をした。
続いて1905年に発表した≪地中海≫も高く評価され、成功と人気を確かなものとした。
≪レダ≫とは、ギリシャ神話に登場する美しい人妻の名前で、彼女に恋をしたゼウスが白鳥に姿を変えて訪れる話である。
かなり簡単にいえば、神であるゼウスが卑怯にも白鳥に扮して人妻を騙して襲おうとする呆れたエピソードなのだ。
古くから裸婦を表現するための口実として、多くの芸術家がレダを題材にしてきた。
そして数多ある作品には当然ように白鳥が表現されている。
しかしマイヨールはその最重要キャストを登場させずに、レダ単独で同シーンを造ってしまった。
鬼が出てこない『桃太郎』や、ロミオが出てこない『ロミオとジュリエット』といったくらい驚くべきことだ。
しかし一切の無駄な要素を省いてレダ自身を表現したことで、彼女の美しさが際立ったのだと私は感じた。
例えばロダンの彫刻は、見事に筋肉を表現しドラマティックで力強さがある。
止まったポーズではなく一連の動きを感じさせるのだ。
しかしマイヨールの作品には、ポーズ以上の動作や過剰なドラマ性はない。
その代わりにロダンとは対照的な魅力がある。
マイヨール作品の大半は裸婦像だが、表現の無駄を省き、優美な曲線と艶やかな肌だけで肉体美を表現した。
鑑賞者を圧倒する迫力や威圧感はないけれど、近付き手を伸ばしてみたくなるだろう。
この静謐で飾らない彫刻の魅力は、初期作品のモデルを妻が務めていたことに理由があるかもしれないと私は考えている。
妊婦から母となった彼女をモデルに制作していたからこそ生み出せた美しさなのではないかと。
艶やかで豊満な裸婦像たちを眺めていると、官能よりも母性のような優しさと温もりを感じる。
正面から眺め、後ろに回ってまた眺め、そしてその背に触れてみたくなるのだ。
彫刻家として成功したマイヨールの元には、弟子入りを志願する者が訪れた。
しかし彼はなるべく弟子をとろうとしなかった。
貴重な弟子として、日本人では彫刻家の山本豊市が4年程マイヨールのもとで学んでいる。
順調に成功を掴んだが、70代を迎えた彫刻家は少々意欲を失いつつあった。
そんな時期に一人の女性と出会う。
ロシア生まれのディナ・ヴィエルニーは、まだ少女とも呼べる15歳で若さと生命力に溢れていた。
1934年以降、ミューズを得た老彫刻家はディナをほとんど唯一のモデルとして熱心に制作を続けた。
約十年後、二人がアトリエで過ごす時間が突如として途絶える。
マイヨールは友人の画家ラウル・デュフィを訪問した際、交通事故に遭ってしまった。
事故の詳細は分からないがフランス語の文献によれば、恐らく悪天候の中を運転して自動車がスリップして横転したようだ。
この事故が原因となり、ほどなくして自宅で息を引き取った。
しかしマイヨールの芸術は、彼の死が幕引きではない。
前述したとおりマイヨールの人生は最期まで何かを失うとまた別の希望が芽吹いたように思うのだ。
パリでの生活を諦めると故郷で妻と息子を手に入れ、絵画で行き詰まるとタピスリーの才能が認められ、視力低下でタピスリー制作ができなくなると彫刻家として大成功した。
いつだって、何かが終われば新しい何かが始まっている。
では巨匠の死という終わり後には、何か希望が遺されただろうか。
それはディナの存在である。
彼女はレジスタンス運動に参加するほどの強い意志と行動力を持っていた女性だった。
彫刻家の死後、彼女の情熱はマイヨール美術館の創設に向けられた。
実はディナ・ヴィエルニーは、以前にも私のコラムに登場している。
ボナールの回で書いた、ポーズをとらずに普通に入浴し続けるように言われたモデルというのが彼女だ。
ボナールとマイヨールは親しい友人だったし、ディナはボナールの親友マティスのモデルも務めていた。
そうした経緯もあり、愛妻マルトを亡くしたボナールは幾度かディナにモデルを頼んだ。
マイヨール亡き後、ディナはマティスに支援されて自らのギャラリーを開く。
そこで才能ある芸術家たちを見出した。
ギャラリーの成功後も志しを失うことなく、ディナ・ヴィエルニー財団を設立し、1994年にはバニュルスでマイヨールがアトリエに使っていた家を補修して美術館を開館。
その翌年に、ついにパリにマイヨール美術館を開館させた。
もちろん初代館長はディナ自身が務めている。
見れば離れがたくなり、様々な方向から眺めても飽き足らず、思わず触れたくなるような彫刻を私は好きだ。
もし近代以降で好きな彫刻家を3人だけ選べと言われたなら、1人目は(あまり有名ではないが)アルフレッド・ブーシェを迷わず挙げる。
次に私は、アリスティド・マイヨールと答えるだろう。
手を伸ばしたくなる美しい曲線。
触れたい背中。
母のように強く優しい像。
一人の聡明な女性が、その生涯をかけるに相応しい最高の彫刻家だと思う。
そして三人目を問われると、アルプかジャコメッティか、クローデルやブランクーシも捨てがたく……、やはり今日も最後の1人は決められない。
しかし、選べないほど多くの素晴らしい芸術家がいて、世界は魅力的なもので溢れているという事実こそが、私が導いた答えなのかもしれない。
アリスティド・マイヨール(Aristide Maillol)の
失望と希望、そしてミューズにまつわる略年表
(1861年12月8日フランス バニュルス=シュル=メール―1944年9月27日フランス バニュルス=シュル=メール)
1861年 12月8日 織物商の四男として、南仏の小さな村バニュルスに生まれる。
1882年 画家を目指してパリヘ。何度も美術学校の入学に失敗する。
1885年 4回目で念願のエコール・デ・ボザールに合格。タピスリーの技術も習得。
1892年 ゴーガンと出会い、ナビ派の仲間と交友が始まる。
1893年 故郷に戻りタピスリーや絨毯の工房を開く。
1895年 タピスリーや絵画と並行して、彫刻の制作を始める。
1896年 工房で助手として働くクロティルド・ナルシスと結婚。10月に長男ルシアン誕生。1900年 タピスリーの仕事で視力を損ない、彫刻に専念する。初期のモデルは妻が務めた。
1902年 ヴォラールの画廊で彫刻の初個展を開催。ロダンが≪レダ≫を高く評価。
1905年 サロン・ドートンヌに出品した≪地中海≫で成功をつかむ。
1925年 弟子をとることは好まなかったが、山本豊市にアトリエの出入りを許す。
1934年 15歳のディナ・ヴィエルニーと出会う。約10年間、彼女をモデルに制作した。
1939年 戦争が始まり、故郷バルニュスに戻る。
1944年 画家デュフィを訪問中、自動車事故に遭う。これが原因で約二週間後の9月27日に自宅で死去。(享年82歳)
1947年 アンリ・マティスの支援を受けて、ディナ・ヴィエルニーがギャラリーを開く。
1994年 マイヨールがアトリエに使った古い家を補修し、バニュルスに彼の美術館を開く。
1995年 ディナ自ら館長となり、ヴィエルニー財団がパリにマイヨール美術館を開館。
2009年 1月、ディナ・ヴィエルニー死去。(享年89歳)