アンデスの大地に刻まれるアース・アート 20

地上絵の研究と保存に一生を捧げたドイツ人数学者

~ ペルー ナスカ マリア・ライヒェ博物館 ~

 

「人は何のために生きるのか」という問いかけを自身に投げかけない人は、恐らく地球上に存在しないのではないだろうか。

自らの人生に目標をもって生きていかなければ価値はないと言うことができる。

ところが、自分の人生を捧げることができるものを見出すのは至難の業であることが現実だ。

大半の人は、常に迷い続けながら生きていくのが現状だろう。

 

町中の書店の棚には、数々の伝記や自叙伝が並んでいる。

書籍となって伝えられる人生を生きた人々は、恐らく自分の目標をしっかりと見定め、目標達成のため絶え間なく努力を重ねたに違いない。

様々な分野での偉業が、繰り返し次の世代に語り継がれ、読者の感動を呼ぶ。

 

南アメリカ大陸のアンデス山脈の麓、ペルーのナスカに刻まれた地上絵は、今でこそ知らない人はいないレベルの知名度をもっている。

古代に広大なパンパに描かれながらも、それらが地上絵であることが知られるようになったのは、それ程昔のことではない。

地上に描かれた幾何学図形阿や動物の絵柄に気づいたのは、20世紀に入って間もなくの頃だ。

 

それ以来、数々の考古学者や歴史学者たちが、ナスカに訪れ各々で学術的な研究を進めた。

この地域で育まれた文化を解き明かすためには、専門の研究者による調査が不可欠だ。

その中にあって、ドイツ人のマリア・ライヒェは、地上絵の研究をするに留まらず、貴重な文化遺産の保存のための活動を精力的に行った。

この活動が、ナスカの地上絵の知名度を上げることに繋がった。

 

ペルー政府が進める開発計画から地上絵を守るように提言し、一般の人々のエリアへの立ち入りを制限するなどして、地上絵を守り続けた。

その一方で、パン・アメリカン・ハイウエイの近くに観測塔のミラドールを建設して、観光客がパンパに足を踏み入れることなく地上絵を見ることができるようにした。

 

マリア・ライヒェは、1903年にドレスデンに産まれ、ドレスデン工科大学とハンブルク大学で、数学、地理学、物理学を学んだ。

29歳のときにペルーのクスコに渡り、ドイツ領事の子供たちの家庭教師として働き始める。

31歳のときには壊疽によって一本の指を失うという不運に見舞われたが、リマで学校の教師を務めるかたわら、科学文献の翻訳を手がけた。

 

ライヒェにとって、人生の最大の転機となったのは、1939年にリマで開催された国際アメリカニスト会議だ。

アメリカ人考古学者のポール・コソックと運命的な出会いを果たした。

ライヒェは、地上絵の天文暦説を唱えるコソックの助手となり、ナスカを訪れ地上絵の研究に没頭するようになった。

1946年頃には、ナスカの地上絵の地図を作成することを思いつく。

2年後にコソックはペルーを離れてしまった後も、彼女はナスカに滞在し続け、ナスカ一帯の地図を完成した。

 

ライヒェは、熱帯の厳しい陽射しが容赦なく照りつける中、乾燥しきった大地を毎日のように歩き回る。

ときには全景を捉えるため、ペルー空軍の航空機に乗り込み、数多くの航空写真を撮影している。

調査においては、数学的な知識を最大限に活用し測量を行った。

 

写真(アンデス20-2)

 

1998年に95歳で息を引き取るまで彼女が住み続けた自宅は、当時のままの姿で残されている。

現在は博物館として一般公開されている。

室内の壁には彼女の夥しい数の観測データやメモが吊るされている。

部屋の片隅でタイプライターに真剣な眼差しを注ぐ彼女の姿はとてもリアルだ。

部屋の中には一つのことに人生の全てを捧げたライヒェの魂が、生き続けているように感じられる。

 

写真(アンデス20-3)

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