アジアの遺跡に見る時空を超えたアート 80

クメール・ルージュ統治時代の言論統制の証拠を生々しく展示

~ カンボジア プノンペン トゥール・スレン虐殺犯罪博物館 ~

 

現代の日本の政治体制は、民主主義による法治国家となっている。

ところが、時の政権の思惑によって法律が公布され、時には国民が苦しむこともありえる。

でも、制度の上では選挙などによって世論が反映される形がとられている。

 

歴史的には、独裁者によって市民生活が大きく歪められたことがある。

ドイツのナチス政権はユダヤの人々に、同じ人間がするとは思えないような残忍な行為を行った。

ヨーロッパの各地に建設された強制収容所で、命を落としたユダヤ人は数えきれない。

このような殺戮は歴史的には極めてまれなケースだが、アジアの地域でも同じような施設が建設されたことがある。

 

カンボジアは、1993年5月に国際連合の監視の下、全国民による民主選挙が実施された。

それ以来、民主主義の国策をとっている。

同年9月には、複数政党制に立脚した自由な民主主義を根本原理とする新憲法を制定し、立憲君主制がスタートした。

 

国際連合は、世界平和のために各国の調整弁の役割を果たしているが、一つの国の政治に深く関わる例は数少ない。

にもかかわらず国際連合が主導的な役割を果たして政治改革が行われたのは、それまでのカンボジアの社会が極めてひどいものだったからだ。

 

特に1970年代のポル・ポトをリーダーとするカンボジア共産党、クメール・ルージュの統治時代には、国民の自由は完全に奪われた。

隣国で起こったヴェトナム戦争の戦火が飛び火し、東西冷戦の最前線ともなった。

原始共産制を主張するクメール・ルージュは厳格な言論統制を行った。

 

首都プノンペンの市街地からやや南に、トゥール・スヴァイ・プレイというリセがあった。

国の繁栄のために子ども達を教育する学校は、革命に学問は不要とするクメール・ルージュの方針によって廃校となってしまった。

子ども達の姿が消えた学校の建物は、あろうことか、そのままの姿で1976年4月前後に政治犯収容所に役割を変えることになった。

 

写真(遺跡80-2)

 

公式名称など一切公開されない極秘施設は、S21の暗号で呼ばれた。

クメール・ルージュは、反革命分子を手当たり次第にS21に送り込んだ。

2年9ヶ月の間に、施設に収容された人は、2万人近くになると言われその内、生きて収容所を出ることができたのは僅か8名だった。

 

かつては子ども達の元気な声がこだました教室には粗末なベッドが置かれ、クメール・ルージュにとって不都合な人々が鎖で繋がれる。

施設内では数々の残虐非道な拷問が繰り返され、収容者は次から次に息絶えた。

 

写真(遺跡80-3)

 

絶対的な権力をもっていたクメール・ルージュではあるが、内部告発が懼れられるようになり1978年頃には分裂寸前の状態となった。

カンボジア東部から十数万人の避難民が、国境を越えヴェトナムに流出するまでに至った。

 

難民を救出するためヴェトナム軍がカンボジアに侵攻し、1979年1月7日にはプノンペンを制圧した。

このとき、ポル・ポトを中心とするクメール・ルージュは全て、首都から撤退、逃亡していた。

翌日、ヴェトナムの従軍記者が異臭を放つ施設を発見し、世界的に公表した。

その直後に、クメール・ルージュ統治時代の歴史を後世に伝える博物館として一般公開されるようになった。

 

写真(遺跡80-4)

 

施設内には学校の教室を利用した収容室が当時の姿のまま残され、収容所から生還した人が拷問の様子を描いた絵画が壁を埋め尽くしている。

一つの部屋には、この施設で命を落とした人の頭蓋骨が治められ、目を覆わずにはおれない。

カンボジアの歴史の犠牲者たちの冥福を祈りたい。

関連記事

アーカイブ

ページ上部へ戻る