映画監督、小林広司君を忘れない

日曜日は安息の日、殆どの人はそういう日常を送っている。

安息日、神エホバが天地創造7日目に休息したとするキリスト教の教義に行きつく、キリスト教徒は安息日に働いてはならない、キリスト教徒と無縁の大多数の日本人は日曜日に教会へ行く習慣がない、ならば日曜日とはなんぞや、普通の日に過ぎないのである。

少し回りくどい言い方になってしまったが、四半世紀以上、暦通りの生活に縁が無い私にとっていわゆる安息日はない。

毎日が労働の日であり、気を緩めれば永遠の日曜日が待ち構えている。

そんな不確かな日の日曜日、昼食を済ませ腹もくちくなり睡魔も訪れた頃、テレビを付けた。

番組表を見ることなくチャンネルを回す、その番組は始まっていて10数分ほど進んでいただろうか、内容は特攻(特別攻撃隊)で亡くなった兵士と島民たちのドキュメンタリー番組だった。

タイトルは”黒島を忘れない2014”、そこで耳を疑うようなナレーションを聞いた、それは旧知の友の死だった。

何が何だか分からない内に番組は進んでいく、鹿児島から南端100㎞先にある黒島という小島で、69年前に起こった特攻隊兵士と島民たちとの哀しくも命のバトンリレーの物語。

過去にドキュメンタリー番組に携わった経験から、この手のものは意識的に避けていた、いろいろなことが浮かんでは消え痛苦なものが押し寄せ見るに堪えないからだ。

だが、この番組を演出した”小林広司”の名がナレーションで流れたとき、全身が鉛の塊で押しつぶされそうな気持ちに陥った。

この番組は2004年の8月15日に放送され、小林君(2008/享年51)を偲び再構成された番組だったのである。

食い入るように見た、内容もそこそこに映像から小林君がどこかにいるのではないかと。

居た、島の高台に作られた平和観音像のところでカメラを回す小林君が居た。

しかし本当に小林君だろうか、ロングショットからの画面では昔の面影を見出すのは難しかった。

番組の中身はこうだ、太平洋戦争末期(1945年3月)、片道だけの燃料で鹿児島の知覧飛行場から出撃していく特攻員たち。

彼らの使命はただひとつ、爆弾もろとも敵艦へ体当たりすることだけ、あと5ヶ月後には戦争が終わるというのに彼らは敵艦隊を撃滅させるために尊い命を落としていった。

昭和20年3月、アメリカ軍の沖縄上陸を阻止するために、日本の執る手段は特攻という形でしか残っていなかったというナレーションが流れる。

その上陸作戦阻止のために戦死した数は約3000人に上ると言われている、その多くは20代前後の若者たち、その中には学徒動員も混じる、いつの世も前線で闘う者は若者だけだ。

アメリカの艦隊から放たれる一斉掃射や機体不備のため目標である沖縄へたどり着けることが出来ず、その大半は途中で海上に墜落し命を落としていった。

沖縄へ敵機を撃ち落とすために向かう特攻員たち、無残にも黒島に多くの死体が流れ着く、その中に深傷を負い島民に救助された陸軍少尉(当時26歳)がいた。

顔から身体全身にいたる大火傷、島には薬も潤沢な米もない、看護した(25歳までの娘たちで結成された)たちが見た少尉の姿形は見るに堪えないものだった。

肉と肉の間にウジが湧き、衰弱し命絶え絶えとする中で島民たちの手篤い看護を受け一命を取り留める。

その惨状も癒えぬ中、また1人知覧を飛び立った特攻機が黒島近海の海上に墜ちた、部隊は違うが同じく陸軍特攻隊の少尉(21歳)であった。

幸いにも21歳の少尉は軽傷で、直ぐにでも黒島から脱し本土より再度の出撃をしたいと血気盛んに息巻くのだった、だが本土へ行くにもまともな船など一艘も残ってなく通信手段もない、あるのは手こぎの艀船一艘だけだ。

断崖絶壁の海に囲まれた地形、しかも艀船で本土へ向かうなど命の保証はない。

落胆しながらも、日本のためにと島民たちに懇願する少尉、それを聞いていた21歳の若者が少尉の願いを叶えることになる。

その若者は少尉2人を収容している家の息子だった、国のためにと忠誠心に燃える少尉を見過ごすことなどできなかったと言う、後に彼は後悔したと述懐していたが。

そして早朝2人は艀船を出し、麻袋を繋いだ帆で荒波の海へと出航していった。

島民たちは遭難を覚悟したという、本土(知覧飛行場)まで最低でも2日はかかる。

その数日後、1機の戦闘機(特攻機)が低空で島に侵入し畑に包みを投下した。

包みの中身は薬、軍医からの処方箋、キャラメルにチョコレートそして恩賜の煙草一本と2ヶ月分の現金が入っていた。

島の誰もが21歳の少尉に違いないと思った、島民の女性が初めて口にした板チョコ、今でも忘れられない味だったと回想していた。

その一方で、島民たちは少尉の言動や振る舞いに恐れを成し、けっして良い印象を持っていなかった、だが包みの投下によって印象は一変した。

深手を負った少尉は薬のお陰で奇跡的に快復し、と同時に包みを投下した少尉は沖縄へ向かい時世の句を遺し散って行った。

“命降る 今ぞこの身を捧げれば 御国はに栄えまつらん”、69年経った今も島民たちは強面の少尉のことを忘れていなかった。

火傷も癒えた26歳の少尉は無事本土へ帰還した。

戦後、その元少尉は黒島に慰霊を続け、沖縄で散った元少尉と黒島の人々への恩返しにと黒島に特攻平和観音建立を思い立つのだった。

しかしその建立の日を見ること無く、元少尉は昭和63年旅立ってしまう。

元少尉の遺志を継ぐ人物が現れる、やはり黒島に墜ちた元特攻兵である。

元特攻隊員たちや島民たち69年の悲願でもあった黒島に、平和観音像が建立され慰霊祭が行われた、その像はかけがえのない平和の象徴そのものだった。

 

放送中も心中穏やかではなかった、番組の中で知った死を事実として受け止めることが出来ないでいたからである。

亡くなって6年もの歳月、知らないのは私だけか……虚しさがこみ上げてくる。

もしやと思い携帯のアドレス帳をチェックする、小林君の電話番号が入っていた、名前の欄にFという会社名も記載され朧気ながら記憶の欠片が動き始めた。

彼とは北参道近くのFという映画配給と出版編集を併せ持つプロダクションで、初めて会ったと記憶している。

そこにちえみ夫人(当時は独身)も働いていて、知ったのは小林君よりも夫人の方が先だった。

当時、私はそのプロダクションで出版の企画か何かで出入りしていた、そのタイミングの中で小林君をどなたかに紹介されたのだと思う。

小林君はそのFに所属はしておらずフリーで活躍していたはず、長髪でギラギラした目が印象的で愛くるしい顔立ちだった。

彼も私も目指すは映画、互いに嗜好も似ていて飲み屋で映画談義を夜遅くまで語っていたことを思い出した。

おそるおそる携帯に入っていた番号に掛けてみた、出たのは女性、ちえみ夫人だった。

長い間会っていない、10年は確実に経っていた、ちえみさんは私のことを直ぐに思い出してくれた、なんの特徴もない私を覚えていてくれた。

”黒島を忘れない”の番組に会話は終始した、”俺はこの作品を作り上げるために生まれてきたのかも知れない”と小林君の遺言のような言葉を夫人が話してくれた。

彼は着実に夢を叶えていた、カンヌ国際映画祭で新人賞を受賞した河瀬直美監督と”萌の朱雀”を共同製作、そして”林檎のうさぎ”の監督と、日本映画界に頭角を現してきたというのに、人生半ばで逝ってしまった。

彼と一緒に作った番組で唯一覚えているのは”夢の祭り-遅れてきた新人監督”というメイキング、”夢の祭り”のメガホンを握ったのは作家の長部日出雄氏、津軽三味線に情熱を燃やす若者たちの姿を描いた作品、興行的にどうであったか知る由もないが、あれから25年も経ってしまった。

メイキング以降、小林君とは会う回数も少なかったと思う、今にして思えばもっと親交を深めていればと……後悔ばかりが先に立つ。

番組の中で彼はこう締めくくっていた“この黒島で、生と死の狭間でもがいた人々が無心で他人を思いやり、助け合い、必死で生きようとしていた姿が目に浮かぶようになってきた。

私はこの黒島の絆の話を人の思いとして伝えたい”と。

番組のタイトルは黒島を忘れないだが、私は小林広司を忘れない、彼が作った物語を多くの人々に伝えていきたいと思っている。

 

それから1ヶ月ほどして、小林宅を訪ねた。

霊前には遺影が飾られていた、あの愛くるしい顔である、まさかこんな形で彼と再会するとは思ってもみなかった。

ちえみ夫人と再会の中で、埋め尽くせない時間を取り戻すために彼との思い出を語り尽くした。

現在、ちえみ夫人は小林君が黒島”墜落した若き特攻隊員と島の人々の物語”で取材した日記を出版するために奔走中である。

だが個人の力で出版するには資金が足りない、小林君の親友だったT氏が中心となりプロジェクト支援クラウドファンディングを立ち上げ、出版資金を現在募っている。

まだ目標の金額には至っていない、このプロジェクトに賛同して下さる方は是非協力を、このコラムを借り伏してお願い申し上げます。

http://shootingstar.jp/projects/1212

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