ピエール=アルベール・マルケ ~10秒の先に~

もう何年も前の話だ。

その冬初めて雪が降った日に、私は新しい革靴で美術館を訪れた。

普段ならば展覧会には慣れた靴かスニーカーを選んで出かけるが、別の用事がありブラックスーツを着ていた。

ゆっくり歩いては立ち止まることの繰り返しが、移動距離の何十倍も足を疲れさせる。

硬い革に擦れて踵がジンジンと熱くなった。

第二展示室に移る頃にはソックスに赤い染みが広がり、ソファーから鑑賞することになってしまった。

列から離れると、鑑賞者から傍観者になった気がした。

分厚いコートを着たまま入場した人が多くて、座ったままでは大きな背中越しに作品は眺められない。

しかしみんな一定の間隔を保ちながら、決まった速度で進んでいる。

そして必ず、しばらく列が途切れる時間がある。

小品の前で誰かが立ち止まれば、後ろの人は手前の作品の前で立ち止まる。

立ち止まった人の前に広い空間ができるので、私はその空間を利用して作品を眺めた。

追い越し禁止車線は大作の前まで続き、群がる人々の後ろだけが追い越し車線だった。

そうしてまた有名作品の前まで行儀よく列は続く。

たまに例外もいたが、ほとんどは前方が徐行すれば後続も徐行し、誰かが一時停止すれば後ろも一時停止した。

傍から見ていると、可笑しな行進だった。

靴擦れに苦しんだ雪の日以来、私は無言のルールから逃れるように何度も傍観者となって展示室の行列を見てきた。

個々にキャプションがなく適度に空いているなどの条件が揃うと、一定の流れができる。

1つの作品を眺める時間はせいぜい10秒程度。

列がなければ自由に立ち止まるが、一度流れが出来るとほとんどが逆らわずに速いペースで進んでいく。

油彩画より水彩画の方が心なしか足取りは速い。

さほど有名ではない画家の作品は、首だけ向けてあっさり通り過ぎる。

版画やエスキースの前では徐行もせず横目で見て歩き去る人が多い。

私は人より速度が遅い。

全体的にもう少し時間をかけるので、先を譲りながら行列を乱さないよう留まっている。

さながら川のせせらぎを休み休み泳ぐ小魚のような存在だ。

しかし、10秒以上かけて感動が生まれることも多い。

一瞬で心を貫く名作もあれば、じわじわと次第に感情を揺さぶる名作もあるのだ。

今回紹介するマルケの作品に惹かれた時も、10秒の先だった。

 

アルベール・マルケという画家をご存じだろうか。

「20世紀前半に活躍したフランスの画家でフォーヴィスムの芸術家の1人」と、ここまで知っていれば平均よりも美術に詳しい人だろう。

ギュスターヴ・モローの教室でマティスやルオーと共に学んだ画家なので名前はわりと有名なのだが、フォーヴィスムの仲間たちと比べて存在感が薄い気がする。

それは奇抜な作風ではないためか、それとも親友のマティスが有名すぎて影となってしまうためなのか、理由は分からない。

個人的には、もっと高く評価されても良い芸術家だと考えている。

 

マルケは風景画を多く描いた。彼の色彩は野獣派らしい鮮やかなものに始まるが、すぐさま落ち着いたものへと変化し、時を経て再び明るい色彩を取り戻している。

フォーヴというと色に注目されがちだが、マルケの作品は奥行きと広がりのある洗練された構図も大きな魅力だ。

しかし私が惹かれている作品は、意外にも人物画である。

一つは裸婦で、もう一つは画家の母を描いたものだ。

座った裸婦は美しい顔をしており、胸元には左右に離れて垂れた乳房がある。

更にその下には膨らんだ腹が見えるのだ。

もちろん妊婦の可能性もあるが、胸の張りのなさから妊娠中の生命力は感じられない。

女性にとっては隠したくなるような姿が忠実に表現されている。

その完璧ではないプロポーションは、美化したヌードよりもむしろ魅力的に思えた。

国立西洋美術館の常設展で同テーマの作品が見られるが、こちらもありのままの姿が描かれている。

美しさも醜さも全て含めて真実を捉える視線は、マルケの母を描いた作品にも感じた。

明るい色彩ではなく、茶や暗めの赤を基調に針仕事をする母の姿を表現している。

俯きつつも僅かに見える母の顔は、幼女のようにあどけなく可愛らしいのだ。

息子の為に必死で働く母が、二人の時間に見せた優しい表情なのだろう。

 

1875年、アルベール・マルケはボルドーの鉄道員の家庭に生まれた。

生まれつき足に軽い障害があり、運動は苦手だった。

また学習障害と言われるほどに学校の成績は悪く、そのために転校を繰り返したという。

本人の希望通りに絵画を学ぶ事が出来たのは、母の強い意志と息子を想う優しさのおかげだった。

母は実家の土地を売り、そのお金で息子を連れてパリへ出た。

彼女はそこで洋品店を開き、針仕事をして生活を支えた。

マルケはパリで装飾美術学校に入学し、6歳年長のマティスと出会う。

まだアンリ・マティスも無名の美学生だったが、マルケは彼の後を追うようエコール・デ・ボザールに通うことにした。

コルモンに師事した後、ギュスターヴ・モローが着任する。

モローの教室には、マティスの他にルオーもいた。

画家として成功するまでマティスとマルケは共同で部屋を借りて、貧しさを嘆きながら絵画制作をした。

1900年を過ぎると共にアンデパンダン展やサロン・ドートンヌ展に出品するようになる。

1905年のサロン・ドートンヌ展では、奇抜な色彩で描く彼らの作品は「フォーヴ(野獣)」と評され、マルケも野獣派に数えられるようになった。

しかし仲間たちと違って、彼はほどなく強烈な色彩表現から離れて中間色を使った穏やかな表現へと変化していく。

キャンバスに描く対象も人物から風景へと変わり、その多くは高い位置から見下ろすような構図であった。

こうした風景画は河岸や港を描いた作品が多く、そのためマルケは「水の画家」とも呼ばれる。

1920年にアルジェを旅行した際、後に伴侶となる女性マルセルに出会った。

マルセルがアルジェ生まれだったこともあり、それ以降は第二の故郷といった具合で毎年のように訪れた。

また1940年からの5年間、戦争を避けてアルジェに暮らしている。

帰国するとまもなく病に倒れた。

胆嚢を患い、後に癌が発見された。

絶筆は1946年にパリのセーヌ川に架かる橋ポン・ヌフを描いた作品となった。

マルケの生涯は、彼の描く風景のように自然で気取りなく穏やかなものだ。

親友マティスとは対称的に、マルケには出世欲も金銭欲もなかったという。

画家はひどく視力が悪かったため、裸眼ではぼんやりとしか物を見ることが出来なかった。

景色を描く際には、まず眼鏡を外して眺めた。

裸眼で見るぼやけた風景と眼鏡をかけたクリアな風景、二つの景色を彼は堪能した上で作品を制作した。

二つの景色を自分だけが見られる、それだけで欲のないマルケは十分だったのかもしれない。

 

 

今回、これほど資料が乏しいとは思いもせずにマルケをテーマに選んだ。

途中でテーマ変更をしようかと迷いつつも最後まで書き上げたのは、彼の作品に真実を描く力を感じたことがあるからだ。

決して脚光を浴びるタイプの人気画家ではない。

展覧会では、知名度が低い作家の作品は横目に見て通り過ぎてしまう人も多い。

しかし、じっくり眺めるに値する作品もたくさんあるのだ。

フォーヴィスムやマティス、モローなどの展覧会が開かれる際には、近しい画家としてマルケの作品が観られる機会もあるだろう。

貴方にとってそれが10秒で通り過ぎては惜しい作品かどうか、まず正対して眺めた後に決めて欲しい。

時に10秒の先には、素晴らしい感動が待っているから。

 

 

ピエール=アルベール・マルケ(Pierre-Albert Marquet)の

友と水辺と妻にまつわる略年表

(1875年3月26日フランス ボルドー ― 1947年6月14日フランス パリ)

 

1875年 フランス、ボルドーに生まれる。

1890年 パリに出て装飾美術学校に通う。後にエコール・デ・ボザールへ。

1897年 ギュスターヴ・モローの教室で、マティスやルオーと共に学ぶ。

1898年 師モローが亡くなり、学校を辞める。

1902年 この頃よりサロン・ドートンヌ展やアンデパンダン展に出品。

1905年 フォーヴと揶揄された若き画家の1人となる。

1906年 ラウル・デュフィと共にル・アーブルなどノルマンディーを巡って風景を描く。

1907年 初めての個展を開催し、好評に終わる。穏やかな色彩へと変化する。

1915年 地中海の港町マルセイユに暮らす。

1920年 アルジェリアやチュニジアなど各地を旅行し、鮮やかな色彩を取り戻す。

アルジェを旅行中、後の妻マルセルに出会う。以来、毎年のようにこの地を訪れた。

1923年頃 マルセルと結婚。

1940-45年 第二次世界大戦中、アルジェで暮らす。

1946年 アルジェへの訪問は最後となる。

1947年 胆嚢や膀胱に炎症を起こし、のちに癌が発見される。まもなくパリにて死去。(享年72歳)


※国内サイトなど一部で没日を6月13日と記載するものがある。日本版Wikiからの転用なのかと思われるが、13日説の真偽については確認できず。

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