明けて、2015年

年の瀬が迫ると街は活気づく、その気迫に押され用もないのに街へとのこのこ出かけて行くのが常だった。

あふれかえるほどの熱気が街を震撼させ、新年を迎えるための儀式が此処彼処で行われていた。

いつの間にか、気ぜわしさと共に嬉しさがこみ上げてくるのに気づく、この情景はどこから来るのだろう……日付が変わるだけのことなのに妙な感情が足下からじわじわと押し寄せてくる。

だが、この妙な感覚は大人になるにつれ薄れていった、薄れた代わりに新種の悦びが訪れる。

それは友と交わす酒だ、忘年会、新年会と名はいろいろ付いてはいるが、それは名ばかりで集まる理由付けの賜。

日々の憂さを晴らす忘憂の物は格別、うれいを忘れる、転じて酒の意となる。

されど酒はつまみであって、主食ではない、メインディッシュは会話にある。

話題がどんなに野卑で通俗的であってもお構いなし、ルールもなく互いに言いたい放題の言葉がかち合い火花を散らす。

言葉の応酬は奔流にのまれることなく、やがて凪となり気持ちの底に柔らかな萌芽が生まれる、故に友との語らいは格別なのだ。

 

12月、街はクリスマスツリー一色に染まっていく、オーナメントが街を彩り、日本全体が救い主の降臨を祝うかのような雰囲気だ、教会ではアドヴェントに入り救い主の到来を心待ちにする時期となる。

初めて訪れる欧米人はこんなにキリスト教徒がいたのかとクリスマスモードの飾り付けに驚く、その光景は一種滑稽であり奇妙に映る、住宅街では煌々とツリーの電飾が競うように照らし出されている。

そして、そのセレモニーが終わるや、神道の儀礼である門松が玄関先に設え、その年の歳神が松の木に宿ることを願う、救い主と年神、いづれも神には違いないがこの国ほど神仏混合が似合う国はない、まさに宗教のハイブリッドの一語に尽きる。

 

駅近くに花屋がある、その入口に門松や松飾りがひしめき合うように並んでいた。

美しいと言うより荘厳と言う言葉が似合う、つい見とれてしまいしばらく眺めていた。

眺めていると、店員が微笑みを浮かべながら薦めてきた、買う気などないのに返答に苦慮し曖昧な態度ではぐらかした、ただ見たかっただけなのである。

その日は暮れも暮れ大晦日、花屋にしてみればなんとしても売りたい気持ちに違いない。

年が明けても売れない品物ではないが、価値は幾分下がるかも知れない。

晦日とは月の最後の日という意味、それに大が付いて一年の最後の日を示しているのだ。

子どもの頃、その日だけは夜更かしを許されるので眠い目をこすりながら、ずっとテレビを見ていたものだ。

午前0時を前にして各テレビ局は神社の参拝客の様子などを、様々に趣向を凝らし中継する。

そして、カウントダウンが始まる、10・9・8・7……一斉におめでとうの声が空にこだましていく。

今や年を重ねると睡魔が先に訪れ、除夜の鐘など閨の中に沈み白川夜船の域である。

余談だが、早めに床に入ると皺や白髪が出て来るという迷信がある、あくまで言い伝えによるものだが、当方白髪も皺も疾うに出ている。

はてこれは迷信にあらず、と言いたいところだが真実味はまったくない。

前出の歳神、大晦日の夜に歳神が帰ってくるものだと、奈良時代より言い伝えられている。

歳神を祀る習慣、我が国古来のものと思いきや、実は中国から伝来したものだという。

なんでも日本流にモディファイしてしまうところ、その伝統は今も続いているような気がする。

除夜の鐘だが、中国では宋の時代に始まり、その影響で我が国も鎌倉時代より鐘をつくようになった。

 

当時の禅寺では、中国の寺院と同じく朝暮の2回、108つの鐘をついた、それが室町時代になると鐘は大晦日のみにつくというルールが敷かれた。

誰がルール改正をしたのか不明だが、禅僧の修行がハードということから取りやめになったのであれば、少しは頷ける。

108つの煩悩を鐘で消滅させるとのことだが、鐘をつく僧たちはどうなんだろう、完全にデリートできているのだろうか。

昨年、ドイツ車を操る坊さんを見かけた、それもサングラスに煙草をくわえ赤信号を無視し246の某交差点を猛スピードで駆け抜けていった。

袈裟がなければ違う世界の人物に思えるほど厳つく、その筋の方たちもアメ車でなく欧州車に乗っていると言うからあながち似たもの同士かも知れない。

もしかして、煩悩……人間の心身を悩ます妄念を消滅するのは市民ではなく、言わずと知れた坊さんたちかも知れない。

 

明けて20015年、その忘憂が今回は1度もなかった、年末に恒例の宴もなかったのである。

加えて年賀状も年々少なくなってきた、それに代わりメールで新年の挨拶を送ってくる者もいる。

クリスマスはとてもアナログに扱うのに、年賀状はデジタルの中でやり取りする、時代の変化は著しい。

いつか年賀状も消えゆく存在になるのだろうか。

尤も義理で年賀状を送るのはいただけないが、せめて新年の挨拶ぐらい神ならぬ紙でと願うのはいささか年寄りじみた感想だろうか……。

 

新年早々、地味なコラムとなってしまったが新年のセレモニーはまだ続く。

松飾りの片付け、そして七草、鏡開き、関西の十日戎、そして初釜とまだまだ正月気分は抜けない。

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