アートを挑発し愛欲に興じた男、フランシス・ベーコン  

人生の終わりを人はどのように迎えたいか、この数年このようなテーマがメディアでよく取り上げられるようになった。

それと同時に知人や親戚から届く訃報の知らせもここ数年少しずつ増えてきている、そのとき初めて味わう無常感はずしりと心に重石がのしかかる。

若いときは永遠の生とまでは行かないが、死自体の存在すら感じることなく忘我の境に入り遊びほうけていたものだった。

海外で最期を、生まれた地で、家族と過ごす、恋人と共に……何を選択するかは各々が決めることだ。

他方、終焉の儀式も変化の兆しが随所に見られる、顕著なのは僅かな親族だけで慎ましやかに営まれる家族葬に関心が寄せられているようだ。

旅立つ者への見送りは近親者のみでしめやかに執り行われ、時の移ろいと共に人の胸裏は少しずつ変わりつつある。

 

ロンドンからスペインに住む恋人を追いかけ、その道半ばに心臓発作で亡くなってしまった男がいた。

死の知らせは地元記者がロンドンへ配信されたが、スペインでの葬儀には誰も来ず、花だけが供えられた侘びしい別れの儀式であった。

男は存命中より”死んだらゴミ袋に入れて捨ててくれ”と友人たちに語っていたという、つまり男は願いが叶ったと言うわけだ。

従って、墓もない、嫌いだった花も供えられることもなく、それから22年間の時が流れ今日に至っている。

 

その男の名はフランシス・ベーコン(1909-1992)、ピカソと並び称されるロンドンを拠点に活躍した20世紀を代表する画家だ。

恋人を追いかけ見知らぬ土地で命を落としてしまうベーコン、そのときベーコンは83歳、信じられぬエネルギーだ。

相手は男、いわゆる男色に耽溺し色恋沙汰の限りを尽くし、果てる寸前まで愛欲に耽る画家であった。

手許に31年前のベーコン回顧展が催された時の(東京国立近代美術館)画集がある、ベーコン74歳の時だった。

昨年も同じ場所で開催され、駅周辺には27歳も年下の恋人、”ジョージ・ダイアーの三習作”のポスターが貼られていたのがとても気になっていた。

31年振りのベーコン展、観る機会を逸してしまったが、今回ベーコンを書くことになったきっかけはアンティークを扱う知人からのメールだった。

毎年11月頃になると知人はロンドンへ蚤の市や骨董家具の店へ買い出しに行く、時間が余ったと言うことでソーホーへ繰り出したというのだ。

偶然にもベーコンが足繁く通ったというバーへ入り、そこにベーコンが描いた絵が飾ってあったという。

知人は私がベーコンの絵を好きだと言うことを知っていてメールをくれたのだった。

どんな絵だったか彼は忘れてしまっていた、しかしその店のオーナーらしき女性からベーコンとジョージ・ダイアーの関係を聞かされた。

絵など全く関心が無い知人だが、ベーコンの名だけは知っていたようだ。

ベーコンは身近な人物をモデルに肖像画を描いた、中でも繰り返し絵にしたのがジョージ・ダイアーだった。

この2人の蜜月は8年にも及んだという、ダイアー見かけは男っぽいが内実は内向的で、酒に溺れる弱い面があったという、そして大量のアルコールと薬を飲み37歳で帰らぬ人に……。

恋人ベーコンもダイアーに負けず劣らず酒浸り、極限まで呑み自分を追い込み、危険なことをしてはリスクを楽しんでいた。

知人は言う、バーに飾ってあったダイアーの写真、ベーコンが描いた顔とは似ても似つかぬ顔だとメールに締めくくってあった。

それは確かに具象画家とはいえ本物そっくりに描くはずもない、描くものは一人ひとりの矛盾を孕んだ内面を幾重にも映し出そうと懸命にベーコンは描いたのだと思う。

 

ベーコンは人の悲しみ、悦び、真剣な顔、あらゆる側面を同時に描いた唯一無二の存在で誰も真似できない特異な画家だった。

その特異さは出自に所以しているのだろうか、少年期のベーコンは謎に包まれ詳細は不明だが、持病の小児喘息もあってまともな教育も受けることが出来ず、個人授業の中で学んでいった、唯一の楽しみは絵を描くことだったという。

そんなことからか次第に父親から叱責されることも多くなり、疎んじられ、さらには見離されていった少年時代であった。

孤独と向き合い、愛情に飢えた16歳の少年は生まれ故郷のアイルランド・ダブリンを逃げるように父の下から去って行った。父親は競走馬を調教していた名士らしいが、ベーコンにとっては非情の存在でしかなかった。

 

ベーコンは具象絵画に執し、人間の深部を描き続けた。

だが、深みへ入れば入るほど絵は具象とは異なりデフォルメされ、美しいどころか醜に惑溺していった様に思えてくる。

その背景はなにか……ベーコンが絵を習いたてのころ、エイゼンシュタインの映画”戦艦ポチョムキン”に深い感銘を受けたと言っている、それはオデッサの大虐殺のシーンで悲鳴を上げる乳母の顔だったという。

この映画は学生時代、何処かの名画座で観た。

細かい断片的影像に分解され再構成されるのではなく、舞台装置を思わせるような勢いに圧倒され、これこそ実験映画の最たるものだと武者震いしたほどだった。

その残像からベーコンはベラスケスが描いた”教皇インノケンティウスXの肖像”をイメージしたのだった、信仰を持たないベーコンにとって宗教の頂点に座した男が断末魔の叫びに打ち震える表情へとトランスファーするあたり、権力者への挑発、それはカトリック教徒の最も高き精神的指導者への反逆のようにも思えてくる。

それもただの反逆ではない、言われなき同性愛者に対して罪悪と見なすカトリック教徒たちへ唾棄すべき叛乱であったのだ

さらにベーコンは言う、オデッサの大虐殺以上に衝撃を受けたのがニコラ・プッサンの”幼児虐殺”であったと。

 

ニコラ・プッサン

 

絵画史上、もっとも良い叫び声はプッサンが描いたものだ。

ベーコンは”叫び”に何を感じ、何を思い描いたのだろうか。

痛苦な叫びは混沌という海原を漂流する少年時代、ベーコン自身の身に起こった忌まわしい体験がもととなって、あの阿鼻叫喚たる叫びを描き続けていったのかも知れない、否それとも歪んだ口から吐き出す自由解放への痛快さか。

 

名声を勝ち取った画家の大半はパリに住んだ、そこが居心地良いかどうかは別にしてパリに憧れパリに溺れていった。

ひとたび足を踏み入れた者は、底なし沼にどんどん足を掬われ沈溺していく、それでもパリは画家たちを酔わせるほどに糜爛的で、画家たちの脳髄を刺激し混乱の渦へと誘発するのだ。

だがベーコンはそれをあざ笑うかのように、徹底してロンドンの下町ソーホーから離れることなくキャンバスに向き合い己と格闘していた。

”神経組織に直接伝わるような、リアリティを表現したいと”ベーコンは生前語っている、それはソーホーという街の暴力的な魅力と生々しい本性に出遭ったことがベーコンをロンドンに留まらせたのかも知れない。

終生、権威や象徴に牙をむきアートの歴史性に対して挑発行為をし続けたベーコン、それを呼応するかのように年々ベーコンの評価は高まっていくばかりだ。

認めてもらいたく描いているのではない、きっとその評価に喜ぶどころか中指を立てNOを突きつけるだろう、マジョリティを嫌悪しマイノリティの中にこそ純粋美術があるのだとベーコンは叫んでいる、そんな気がしてならない。

関連記事

アーカイブ

ページ上部へ戻る