ジョアン・ミロ 29億円の絵を描いた貧乏青年

「うすのろ」「インテリ」「稀にみる不器用者」。

こんな渾名を付けられて笑われ、苛められた少年がいた。

学校では友達が出来ず、毎日の辛い現実から逃げるように描くこと没頭した。

少年は夢を見た。

そして夢を描いた。

少年は、念願かなって画家になった。

100年以上が経った今、彼の絵には2356万1250ポンド(約29億2000万円の彼には、夢にも思わない金額たろう。

 

例えば1925年に居たアトリエは、窓ガラスが割れて、蚤の市で安く買ったストーブは壊れ、寒さに震える極貧生活を送っていた。

昼食は週1度だけ。

いつも飢餓寸前で、乾燥イチジクとガムを噛むことで空腹を紛らわせたという。

次第に空腹は彼の精神を蝕み、幻覚を見るようになった。

もしかしたら彼が描いていたものは抽象絵画などではなく、厳しい現実から生まれた妄想や幻覚を写実的に写しただけだったのかもしれない。

2012年6月、サザビーズのオークションにスペイン出身の画家ジョアン・ミロの絵画≪青い星≫が出品された。

当初の予想をはるかに上回り、2356万1250ポンド(約29億2000万円)で落札された。

これはミロの作品では過去最高の落札価格となった。

この≪青い星≫は1927年に描かれた作品だが、40年代には代表作≪星座≫シリーズを制作するなどミロは生涯に幾度も星々や月をテーマに描いている。

画家ジョアン・ミロの誕生1893年、バルセロナでジョアン・ミロは誕生する。

彼が初めに見たであろう天井には、星が描かれていた。

父は宝飾品・時計職人で、母方の祖父も家具職人だった。

彼は子供の頃から描くことに魅了されていた。

小学校では周囲に馴染めず、いわゆるイジメられっ子という存在だった。

勉強も得意ではなかったため、暗い学校生活から救いを求めるように放課後の素描クラスにのめり込んだ。

当時の事を振り返り、「素描の道具は聖なるものであり、素描は宗教的儀式のようなものだった」と語っている。

この言葉からも、ミロにとって描くという行為がどれほど大事なことだったのかが伝わってくる。

父の意向で商業高校に進学するが、ここでも友達が出来ずに状況は変わらなかった。

ミロはまたも救いを求めるように、高校と同時にラ・リョッジャ美術学校に通うことにする。

この美術学校には10年前にピカソが在籍していた。

しかし、すぐ才能を認められたピカソとは異なり、ミロはこの学校で開花したわけではない。

それでも教師の中には才能を見出す者もおり、将来有名な画家になるであろう事を父親に説いた。

父はそんな根拠のない話を信じることなど出来ず、堅実な仕事に就くことを望んだ。

ミロは諦めて薬局に就職をするが、それは彼にとって耐えがたく不幸な時代だ

った。帳簿係をしていたが、ここでも現実逃避のようにミロは台帳に絵を描くことが止められなかった。

普通に考えたら、そんな不真面目な従業員はすぐクビに

なるだろう。しかしミロはクビにならなかった。

その前に極度の鬱状態に陥り、腸チフスを患って退職してしまったからだ。

ちょうどその頃、父親が一族の故郷であるモンロッチに農園を購入した。

ミロはここで療養し、生と死の狭間をさまよいながら約二か月間も病に苦しんだ。

この地は、ミロの第二の故郷となった。

 

息子の姿を見て父も諦めたのか、病から回復するとフランセスク・ガリの美術学校への入学が用意された。

ガリは若い芸術家に理解がある人物で、ミロの才能をすぐに認めた。

この教室で出来た友人と共同でアトリエを借りている。

おそらく初めて教師に才能を認められ、友達ができ、周囲に受け入れられたのだろう。

この後、画家ジョアン・ミロは大きく成長していく。

仲間との出会い20世紀初頭からダルマウ画廊はシュルレアリスムやダダの展示を行っていた。

ミロはここでフランス美術展に感銘を受け、ダダイストのフランシス・ピカビアと知り合った。

ダルマウはミロの作品を気に入っており、初個展もこの画廊だった。

またパリ行きに尽力した人物でもある。

 

退職して再出発した後のミロは、多くの出会いに恵まれた。

そしてパリ旅行を機に、彼の人生は大きく変化する。

パリで同郷のピカソを訪ねると、ピカソはミロを歓迎して1枚の自画像を購入してくれた。

翌年にはパリにアトリエを借りる。

このアトリエの隣には、画家アンドレ・マッソンが居た。

マッソンからパウル・クレーなど画家仲間を紹介され、ピカソを通じて画商とも知り合った。

数年後には、A・アルトーやJ・デュビュッフェ、P・エリュアールやE・ヘミングウェイ、レイモン・クノーなどといった現在では著名な芸術家や詩人たちと交流した。

1927年モンマルトルのアトリエに移ると、そこにはマックス・エルンスト、ルネ・マグリット、ジャン・アルプといった仲間たちが居た。

こうしたシュルレアリストとの交流があったために、ジョアン・ミロは今でもシュルリアリスムの画家として数えられることが多い。

しかし、彼自身は一つの

型に納まるつもりはなかっただろう。晩年に至るまで、新たな素材を使って自由

な表現を試み続けた。

イジメられっ子の妄想と夢

冒頭でも触れたが、当初パリでの生活は楽ではなかった。

仕送りはなく、空腹を抱えて何日も過ごし、意識朦朧として幻覚を見た。

ミロはそこにインスピレーションを得た。

飢餓に苦しみながらも、それを作品に昇華させることで自らの表現を手に入れたのだ。

パリでは多くの仲間と知り合ったが、依然として彼がイジメられっ子気質であることには変わりがなかった。

皆がカフェで芸術論などに興じている時、ミロは憑かれたように仕事をした。

仲間たちとカフェで過ごすことはほとんどなかった。

一心不乱に描き、上階にアトリエをもつエルンストに見られるのを避けて、作品は全て壁に向けて裏返しに置いた。

そんな彼の行動を仲間たちは、面白がっていたのだろう。

ある夜、エルンストら数人の友人が酔っ払ってアトリエへやってきて、カンバスを全て調べた。

そして絞首刑のように輪を作ったロープでミロを吊るし上げ、強く引いて締め上げてしまった。

ミロはどうにかロープを外したが、あまりの恐怖で3日間も家に閉じこもってしまったという。

そんな事件があっても、ミロにとってエルンストやアルプは変わらぬ友人だった。

ミロが手に入れたもの1929年に母の故郷マリョルカ島で結婚をして、翌年には長女が誕生する。

バルセロナやパリで個展を開いて成功を収め、ついにはアメリカでも個展を開けるようになった。

こうして徐々に大規模な回顧展が開かれるようになっていった。

成功を得ると同時に、様々な手法や素材に取り組むようになる。

一つの表現に甘んじることはなかった。

油彩やグアッシュなど様々な絵の具を塗る先は、時にカンバスであり、時に厚紙であり、壁にもなった。

コラージュや陶器、リトグラフやブロンズ彫刻、ステンドグラスなど晩年に至るまで素材と表現の追求を続ける。

パリ万博のスペイン館の巨大壁画を手掛けた後には、いくつかの壁画を制作して賞を貰うまでになった。

陶壁画でも成功を収め、ハーバード大学の名誉博士号やスペイン国王からメダルを授与される栄誉も手に入れた。

彼が老衰でこの世を去るのは1983年90歳の時である。

それまでにミロはあらゆる栄光と評価、人々の理解を手に入れた。

学校の皆から笑いものにされ、仲間にもイジメられて、食事すらできずにいた日々。

つらい現実から逃げるように描くことを始め、大好きな絵を描くという夢を見続けることができたジョアン・ミロ。

彼はピカソやダリと並んで、母国スペインを代表する芸術家となった。

型にはまらない芸術家ミロ主義や様式などに分けて画家を捉えることは、大事な研究方法だ。

しかし私は普通に作品を鑑賞する上では、芸術家を一つの型にはめて捉える必要性はないと思っている。

鑑賞者は研究者ではないのだから、自由に鑑賞する方が受け取れることは多い。

シュルレアリストの作品だから無意識や夢が追求されていて、ダダイストの作品だから秩序や常識の破壊を目的にしているなんて決めつける必要はだからミロの作品も、時と共に変わる表現を〇〇時代の作品と区切って鑑賞しないで欲しい。

そのため今回は時代毎の特徴には触れずにミロの生涯を書いた。

ミロ作品には、星や夜空をテーマにした作品が多く、奇妙な生物を不思議なバランスで配した作品も多い。

抽象に目覚めてからの作風は幼子の落書きのようであり、夢の世界のようであり、ナスカの地上絵に似たものもある。

形態も色彩も時と共に変化していくが、それら全てがジョアン・ミロの表現なのだと受け止めて欲しい。

無理やり型にはめて彼の作品を鑑賞していては、あの自由な世界を心に感じることはできないだろう。

 

 

ジョアン・ミロ(Joan Miro i Ferra)の

人生で手に入れた出会い、表現、栄誉にまつわる略年表

1893年 4月20日スペイン、バルセロナで生まれる。

1987年 5月2日妹ドロレスが誕生。

1900年 地元の小学校に入学するも、苛められっ子となる。放課後の素描クラスを受講。

1907年 商業高校に進学。10年前ピカソが在籍したラ・リョッジャ美術学校(※註)に通う

1910年 簿記係として就職するが、本人には最悪の時期。

1911年 極度の鬱状態に陥り、腸チフスも患い会社を退職。モンロッチの農園で療養。

1912-15年 フランセスク・ガリの美術学校に通う。

1913年 無党派の若い美術家が結成した「聖ルカ美術協会」に入会。

1915-17年 毎年10月から12月の3か月を3年間、兵役に就く。

1917年 フランス美術展に感銘を受け、ダダの中心的人物フランシス・ピカビアと知り合

1918年 ダルマウ画廊で初個展を開催。ここでは同郷のダリも7年後に初個展を開いた。

1920年 パリへ初旅行。同郷のピカソに会う。この時ピカソは≪自画像≫を購入。

1921年 2度目のパリ。アトリエを借りる。隣人マッソンにパウル・クレーらを紹介され

1920-21年 初個展から模索していた「詩的リアリズム」時代の最後の作品≪農園≫を制

1921年 パリでの初個展を開催するも作品は売れなかった。

1923-24年 アルトー、エリュアール、ヘミングウェイなど美術家や詩人と交流を深める

1925年 パリで個展を開催し、成功。

1926年 エルンストとロシア・バレエ団の舞台装置を制作。モンロッチで、父ミゲルが逝

1927年 モンマルトルに転居。アトリエの隣人は、エルンストなどの若き芸術家。

1928年 最初の≪オブジェ-コラージュ≫を制作。個展を開き、41点出品して完売する。

1929年 10月12日 パルマ・デ・マヨルカでピラール・ジュンコーザと結婚。

1930年 7月17日長女マリア・ドロレスがバルセロナで誕生。アメリカで初個展を開催。

1932年 モンテカルロのロシア・バレエ団の舞台装置や衣装などをデザイン。

N.Y.のピエール・マティス画廊(画家マティスの次男)で個展を開く。

1933年 18点のコラージュとこれに関連する絵画を制作。

1936年 妻子とスペインの内乱を逃れてパリへ移る。MoMAの展覧会に出品。

1937年 ポスター≪スペインを救え!≫をデザイン。パリ万博の巨大壁画を制作。

1940年 ≪星座≫シリーズをグアッシュで制作を始める。翌年スペインで完成。

1941年 MoMA(ニューヨーク近代美術館)で大きな回顧展が開かれる。

1944年 アルティガスの協力で陶器の制作を始める。5月27日母フェッラが逝去。

1946年 初のブロンズ彫刻を制作。

1947年 初めてアメリカへ旅行し、シンシナティーのホテルの壁画を制作。

1950年 W.グロピウスからハーバード大学の食堂の壁画を依頼される。

1955年 厚紙に絵画作品を制作。

1958年 ユネスコ壁画を完成させる。翌年にこの作品でグッゲンハイム国際賞を受賞。

年 ハーバード大の壁画に代えて、陶壁画をアルティガスと共に制作。

1966年 最初の大きなブロンズ像を完成させる。

1967年 グッゲンハイム美術館に陶壁画が設置され、カーネギー国際絵画大賞を受賞。

1968年 ハーバード大学から名誉博士号を授与される。

1979年 共同制作のステンドグラスが公開される。

1980年 スペイン国王より美術金メダルを授与される。

1983年 90歳の記念展覧会を開く。

12月25日パルマ・デ・マヨルカにて老衰のため死去。

12月29日バルセロナの墓地(ミロ家のお墓)に埋葬される。

(※註)la Escuela de Bellas Artes de La Lonja:ラ・リョッジャ美術学校

ラ・リョッジャ美術学校は、文献によって表記がことなります。例えばロンハ美術学校

などと表記されることがあります。これらは同一の学校。スペイン語は地域により発音が

異なり、またスペイン国内でも時代によって標準的な発音が変化しているため文献や筆者

によって表記が異なることがあります。藍沢自身もスペイン語を学んだ時期がありますが

、当時の先生はjaを「ジャ」でも「ハ」でもなく、ヒャに近い発音で教えていました。

こうした理由から、スペイン語圏の地名や建物名など固有名詞が異なる表記がされるこ

とがありますのでご注意ください。

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