ナイーフから忍び寄る深部の世界をのぞき見た

その絵のタッチはどことなくシーレのような雰囲気を醸し出していた、たぶん線描がそんな印象を持たせたのか知れない。

但しシーレは鬱屈した色彩に対し、難波田史男の絵は明るい、でもなにか明るさだけでもなさそうな気配がじりじりと伝わってくる。

“難波田史男の世界
イメージの冒険(世田谷美術館-2014-12/6〜2015-2/8)”と題され、約15年間の画業の中、厳選された作品300点が催された。

平日と言うこともあり、人も少なくゆっくり見ることができた。

と思いきや、どっと女子高校生と思しき団体が会場を埋め尽くした。

その光景は絵を鑑賞すると言うより、授業の一貫で仕方なく見学している風に思えた。

好きでもない絵を観るのは苦痛だ、私も経験あるがいやいや観るのは辛いものだ。

仕方なく、入口近くのソファに座り暫し静まるのを待つことにした。

 

入口には難波田史男(1941-1974)の等身大の写真が飾ってあった、32歳という若さで逝ってしまった難波田の顔はあどけない童顔に見え、まさに絵と重なる無垢の顔だった。

油彩画も数点あったが、作品の大半は水彩とインクで占められていて、それも淡青と赤が混じり合う詩の世界を彷彿とさせ、命の根源をみた気がした。

その写真の横に難波田の日記が添えられていた。

“芸術は青年のものなり。ぼくはもう必死だ。

青年の認識、青年の自覚、もうひと息だ。

ぼくは自分に警告する、子供っぽく笑うな。

要するに、絵はデタラメでないのだ。何かこう、子供っぽい声がささやくのだ。

1961年3月19日付。”

この日記、没後40年の展覧会に果たしてふさわしいかどうか分からないが、難波田二十歳のエクリチュールは意味深に思えた。

あどけない子どもの顔がキャンバス一杯に描かれている、しかしそのあどけない表情をした顔は、はたして子どもだろうか……丸や四角そして三角と形を変えながら難波田のイメージが突き進む、あどけなさがあればあるほど現実の世界から逃避していく様が覗えるのだ、笑みを浮かべた子どもの顔は恐怖さえ覚える。

水彩から色が滲み出て、線描の中へと拡がっていく、輪郭と滲みが溶け合い永遠の契りみたいなものが透けて見えてくる。

この展覧会、とても楽しみにしていた。

3年前に行われた”難波田史男の15年(東京オペラシティ アートギャラリー)”を見過ごしてしまったから今回は何をおいても見る、その気持ちで一杯だった。

難波田史男は15年という短い活動の中、2000点を超える作品を遺した。

他界して40年、本展では”異次元の未来世界”と”内なる物語世界へ”の2部構成の展示となっている。

第1部の”異次元の未来世界”、異次元とは思えなかった、画家を夢みてひたすら絵を描く、だれも真似できない難波田世界の構築、その活動は19歳から25歳と言うことから彼自身の意気込みが感じ取れる。この時代は読書に耽り、学業に虚しさを感じていたという。

早稲田高等学院を卒業するが、画家を目指し文化学院美術科(神田駿河台)に入学。

石膏デッサン等の授業には関心が持てず、ひとり神田の街でスケッチや古本屋巡りが日課だったという。

父(難波田龍起/画家)の友人、美術批評家東野芳明が史男の作品を評価し、もう文化学院に通うことはないと進言する。

文化学院は2年で中退し、独自の制作を果敢に進めていった。

遅れること2年、父と同じ早稲田の美術専攻科へ入学するが、そこから少しずつ難波田の絵が変化していくのだった。

第2部”内なる物語世界へ”、 打ち砕かれる、絵の全体がくすんで見えた。

絵のトーンが沈む、あの淡青の色はどこへ行ってしまったのか、油絵のようなタッチで色遣いがとても濃い。

かと思えば、その描き方も長続きはしない。

また思い出したかのように淡青と赤を基調とした彼独特の滲んだ絵に戻っていく、振り子のように難波田の心は大きく揺れ動いていた。

その変化は展示している絵の横の解説書で理解できた、早稲田に晴れて入学したキャンパスライフは、自身が思いも付かぬ世界が待ち構えていたのだった。

大学は大学紛争真っ直中、紛争によって彼は精神のバランスを崩してしまう、学生間の対立の狭間で悶々とし、難波田は大好きな絵と向き合うことが困難を極めていった。

苦悩する絵” 早大行進曲”があった、機動隊と対立する学生、それを遠くから眺める難波田、打ち震えるような筆遣いにも思えた。

心の傷はそう容易く治るものではない、それまで自由に羽ばたいていたイメージの冒険は受難の季節を迎えていく。

1960年代という時代は、思想の豊穣と波乱を含んだ特異な時節であった。

冬空のどこまでも青い空はいつになれば来るのだろう、きっとそのようなことを無垢な難波田は思ったに違いない。

 

そのような中、難波田21歳、100号のキャンバスに水彩とインクで描いた”サン=メリーの音楽師”は、難波田自身の感性がいきいきと描かれていた作品だと思う。

詩作に耽り、読書と音楽鑑賞が唯一の生きがいであったという難波田、画題もアポリネールの詩集から取ったという。

殆どの作品は無題というタイトルが多く、このサン=メリーの音楽師を含めて数点だけであった。

赤と淡青で構成された楽器と譜面、ハープシコードらしきものを弾く女の子、つま弾く音はどんな響きをしただろうか。

譜面が踊る……子供たちはそのメロディを聴き、バンザイしながら小躍りしている。遠く20世紀初頭のパリ画壇で、キュビズムやシュルレアリスムといった新思潮を先導したこの詩人に、難波田は特別な興味を抱いていた。

 

“不条理の最高の喜びは創造である。

この世界に於いては、作品の創造だけがその人間の意識を保ち、その人間のさまざまな冒険を定着する唯一の機会である。

創造すること、それは二度生きることである(68~69年頃のノートより)”、この2度生きることであるという言葉に違和感を感じた、空想の世界を表現しようと格闘しつつも、彼の内で先行き不透明などこか行き詰まったものがあったのではないか……難波田は兄と共に九州へ旅行に出かける、その帰りのフェリーから海へ転落し命を落としてしまう。

なんともあっけない去り方だ、事故あるいは自殺、真実は藪の中。

早死にすると夭折の画家と枕詞のように付くが、夭折と言う言葉は難波田にはふさわしくない言い方だと思う。

だが2度生きるとノートに締めくくった言葉に意味を囚われ、感情がぶれる、絵そのものにこそ意味があるのに、会場を出ても2度と言う言葉が離れずにいた。

画家である父も、史男について意味深なことを書いている。

“彼が行きついたと思われる絵の境地に、私も深い人生の孤独な愛を感じたのである”と。

行きついた……それは行き詰まったという解釈になるのか、それとも完成したということか。

難波田の絵にはおそろしいほどの無邪気さがある、その無邪気さを自身が知ったとき、とめどもない寂寥感に陥ってしまった、そんなことがふと頭に過ぎった。

 

ある日の幻聴

 

 

 

 

 

 

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