足元を見る、という諺がある。
相手の弱点を見てつけ込むの意、なんとも背筋が寒くなりそうな響きを持つ言葉だろうか。
その足元とは、ずばり靴を指す言葉で、靴いかんによって人格さえも否定されかねない辛辣な言い回しといえる。
大分昔のことだが、あるアーティストのパーティに招待された、招待状にはカジュアルな服装での文言が添えられていた。
若かったこともあり額面通りに出かけて行った、ところが玄関先には黒服の男2人がいて、ためつすがめつ、こちらを舐めるように眺め、一言、ネクタイ着用でないと入れませんと言われてしまった。
招待状には……と言いかけた途端、主催者である人物が玄関先に現れ難を逃れることができホッとした。
そもそも仰々しいパーティは苦手だ、ただ仕事上欠くことのできない人物であったため出かけただけのこと。
最近やたらと”ドレスコード”というワードが目に付く、普通に”正装”と書けば良いものを、シルバー世代の人たちは慣れない言葉に目を丸くすることだろう。
正装、つまりスーツを着ることには全く抵抗はない、ネクタイもレジメンタルからペイズリー、クレスト、ドット、チェック、バーチカルストライプ、パネルetc、タンスの肥やしになるくらい持っている、物好きと言うほかない。
しかしである、パーティや公式行事、果ては冠婚葬祭のような堅苦しさを匂わせる場所で”首を結ぶ”ことには非常に窮屈で居心地悪い。
生来のあまのじゃく故に、予定調和を乱す積もりはないが端からドレスコードを、と息巻く御仁たちには僅かばかり異論を唱えたい。
イタリアに” Gli occhi possono mentire, un sorriso sviare, ma le scarpe dicono sempre la verità.”と言う諺がある、”目や微笑は欺けても、靴は真実を語る”つまり日本の”足元を見る”に通じるプロヴァーブ。
かのおしゃれの代表格イタリア男も真っ青ということだろうか、とは言え、イタリアの男全てがおしゃれと言うわけではない、それはファッション雑誌や映画のシーンにそれらしく纏う姿がイタリア男=おしゃれの代名詞になってしまったのだろう。
靴はイタリア、日本に限らず、身だしなみの基本とも言えよう。
一昔前、日本の駅前広場で靴磨きを生業とする人たちが大勢いた、子ども心に焼き付いたあの光景は微笑ましく新鮮に思えたものだ。
1度だけ磨いてもらったことがある、大人の仲間入りをした気分のような心地だった。
時代は移り変わり、賑わっていた靴磨きの風景も影を潜み、残るは数店のみとなってしまった。
革靴よりもスニーカー人口の占める割合が多いことも靴磨き減少とけっして無縁ではないだろう。
足元を見る……この諺、江戸時代の駕籠かきやから出てきたものらしい。
街道や宿場を根城に鵜の目鷹の目で客引きする稼業、駕籠に乗せる際、客の足もとを見て疲れ具合を見るのである。
疲れていれば、その弱みにつけ込み法外な金銭を突きつけ”えさほいさっさ”の体、まさに理に適った諺と言える。
靴は一目で人格が分かってしまうくらい怖いものだと痛感する、では靴下はどうだろう。
靴の中に穿くのに靴の下とはこれ如何に、落語の謎かけみたいだが、辞書によれば下という字には”隠れて見えないところ、裏、内側”の意味があるらしい、つまり下着もその部類に入るわけだ。
普段何気なく使っている言葉でも、言いえて妙な言葉にぶつかることがある。
当方、ネクタイに限らず靴下も抽斗の中に相当数眠っている。スーツに合う素材にはウール、カジュアルなものにはコットンあるいはカシミアと季節に応じて穿く。
だが、そのスーツを着る機会もめっきり少なくなってきた、重要な打ち合わせもカジュアルな衣服で済ませることが殆どだ。
敢えて言うがコレクターではない、靴下は消耗品と言うことから嗜好に合ったものがあればつい買ってしまう。
つい買ってしまうと書いたが、気に入った男モノの靴下を見かけることは少ない、いや無いと言った方が良いかも知れない。
女性ものはカラフルなものからシックなものでもバラエティに富んでいるが、とにかく男モノの靴下に限って言えば、酷いものだ。
ありきたりの色合いと素材、それはサラリーマンをターゲットにしたものが主流だからだ。
ドブネズミ色のスーツと海外のファッションジャーナリストに揶揄されたことが過去にあったが、今も大して変わらないと感じる。
何事も無難、目立つことを忌み嫌う国民性、服装の上から下まで地味というのが我が国の流儀。
デパートでは定番の靴下が並べられ、一方ブランドものと言えば価格はぐんと跳ね上がり、中には奇抜さを売りにしたものもあったりする。
では海外にも進出した巨大アパレルメーカー”U”はどうか……先日初めて足を踏み入れた、驚く、品物の多さに、そしてカラーリングのどぎつさに興ざめした。
男モノの靴下は壁面一杯に飾ってあるのだが、購買意欲は湧いてこない。
安価が消費者を喜ばせる唯一のビジネスとするならば、この店はまさしくぴったりと言えよう。
だが、そればかりだと感覚は鈍くなる、食事もファストフード、衣裳も…誰もが同じ服を着、同じ食べ物を食べる、これも格差社会の歪みが産んだ産物かと言いたくもなる。
大方の男性は靴下を買うのに悩んだりはしないだろう、こちらは靴下1枚買うにもあれこれ思案し買うでのある、とどのつまり靴下が好きなのだ。
故に、人を見るとき足元ではなく、つい靴下を見てしまう。
先日、電車内で初老と思しき男性の靴下に見入ってしまった、インディゴブルーのジーンズに横縞模様の靴下、その色遣いのセンスに感心する。
ツィードジャケットに口髭を蓄えたその人物、靴はブラウン地のデザートブーツと上から下まで凝っていた。
スーツが幅を利かす日本に於いて、中年以上の男にはおしゃれを楽しむ人物が少ないような気がする、そんなことから余計に初老の容姿に見ほれてしまった。
本場イギリスやイタリアではと言うと、男たちはスーツを着るときホーズを穿く、それも踵から膝下までの眺めのものだ。
ソックスとは短めのものを言い、長めのものをホーズ(hose)という。
因みにホーズの語源は、オランダ語でホース(水を撒く)ことから来歴している。
靴下の円筒形が、ホースに似ていることからその名が付いたのだ。
さてそのホーズ、スーツに長めの靴下を穿く、それはすね毛を隠すため、ということらしい。
その理由として、男子の正装(イギリスやイタリアなど)では、首から上と、手首から先以外の肌は露出してはいけないルールがあるという。
すね毛が見えても当方全く気にならないが、スーツが誕生したイギリスにはプリンシプル(コラムで書いた“消えゆくプリンシプル”)、口幅ったいが原理原則国を指し、いわゆる筋を通すことが絶対条件なのだ。
従ってその国に入ればその国のルールには従うほかない、和服とて同じ事が言える。
靴下に執着するのは自分だけと思っていたら、大橋歩(イラストレーター・デザイナー)さんもその一人だった。
大橋さんはご自身の著書の中で靴下のことに触れている。
念願だったので”ずーっとコムデギャルソンの靴下を穿いていました。
今も穿いています。
でも私の会社イオグラフィックでも穿きやすいソックスを作りました。
これはす。1に穿き心地がいい。
そのためにはあまり厚手ではなく素材はできるだけナチュラル素材。
2に短すぎない。
普通といえばとっても普通のソックスですが、その普通がなかなかさがしてもありません。
無地の男物みたいです。
素っ気ない形です。
そういうのがいいと思っていますから。
私にとってソックスは下着と同様とても大事な衣類なのです”と締めくくってあった。
推測するに、普通のソックスと書いてはあったが、そう単純ではないと思う。
コムデギャルソンの靴下を愛用していた大橋さんは言うように、ここの素材はしっかりしていて糸崩れもせず、しかも深く編んでおり丈夫にできている。色合いもきつくなく、どちらと言えばモノトーンに近い。
靴下の履き心地は、かかと部分を90度になるように深く編みこまれたものが良い、足にぴたっとなじみ、ずれてこない。
それがはき心地のよさにつながるのだ。
たかが靴下くらいというなかれ、足元を見るではなく”足中”を見る、に注視したい。
となれば、相手の弱点ではなく対義語の”美点”と変換される。
つまり相手の良いところを褒める、造語だが、”足中を見る”こんな諺ができても良いではないか。