ATG雑感後始末記vol.3—日本ヌーヴェルヴァーグの予兆

今、ヌーヴェルヴァーグの旗手、ジャン=リュック・ゴダールの映画”さらば、愛の言葉よ(1/31~)”が封を切った。

3Dを駆使した映画と言われているが、そんなことはどうでもよくゴダールの実験性はどんな発展を遂げているのか。

また、断片だけを集めたブリコラージュになってはいないか、そればかりが気になる、近いうちにそれを確かめに行きたいと思っている。

 

6年前の7月初旬、市ヶ谷はうだるような暑さの中にあった。

約束は13時、まだお天道様は真上で高笑いしている。

目指すは葛井欣士郎宅(文中、登場人物の敬称略)、坂道は身体には堪える、汗も容赦なく滴り落ち勾配がこれほど憎いと思ったことはない。

玄関前に着くと、ガラス越しに杖をついた老人が佇んでいる。

まさか……あの笑みは間違いなく本人だった。

玄関まで迎えに来てくれたのかと思ったが、そうではなかった。

杖を頼りに覚束ない足取り、2年前に撮影した時とは様子が全く違う、正直愕然とした。

“村井がまた入院することになり、部屋も片づいてないので、外で話を”と、微笑の中に疲労の影が覗えた。

村井……劇作家の村井志摩子、葛井の妻である。

彼女は広島の原爆をテーマに”かたつむりの会”というミニマムな演劇集団を組織し、世界に向けて平和を唱えていた方である。この方とは演劇”プラハ68821”で舞台の片隅でお手伝いした経験があり、夫婦共々私はお世話になっていた。

いつか彼女のことを書きたいと思っている。

 

マンション前の横断歩道を渡り、坂道を下っていく。

和食風の店に入る、ランチタイムもあって少しだけ混んでいた。

葛井をどこへ座らせるか瞬間悩んだ、早く座らせたいが適当な場所がない、すかさず店員が気を利かし、奥の座席へ案内してくれた。

昼食を済ませた時間帯に設定したのに、なんとも気が引ける。

2年前の声とは格段の差、会話が聴き取り難い、手も少しだけ震えている、足は痺れがあって歩きにくいのだそうだ。

非常識なことをやらかしてしまった、後悔しきり。

食事を済ませ、近くのカフェに入った。

話題は若松孝二監督と足立正生監督の2人から始まった、若松の律儀さと能力の高さを訴えていた、しかしその彼も旅立ってしまった。

足立は2歳の子どもがいるらしいと、何を血迷ったのか、”俺は80まで生きなくてはならない…”と葛井さんに言ったと言う。声はかすれ聞き難いが次々とATG映画に関わった監督たちの名が出て来る、口角泡を飛ばしながら、大島渚、篠田正浩、吉田喜重等々を語り始める葛井。

時間経過と共に元気を取り戻し、アートシアターギルド新宿文化(ATG)を立ち上げた当時の真情を吐露し始めていく。

 

アートシアターギルドは1962年に発足し、翌年63年には演劇も立ち上げた。

アートシアターギルドという言葉がある限り、芸術劇場であってムービーではないのだ、と葛井は語気を強める。

実験映画を興した際、国内ではドル制限があり、洋画配給会社には年に何本かの洋画の割り当て制度があった。

従って、配給会社はある程度商業主義のヒットする映画でないと輸入しない。

その反動で、イタリア映画やフランス映画が日本で観れずに残ってしまっていた。

ATGはそんな状況の中で、東宝や東和の配給の割り当ての本数をもらい、かつて上映出来ずにあったお蔵入りの芸術映画や実験映画がピックアップ出来るようになり、葛井が渇望する映画がようやく日の目を浴びることになる。

だが5年くらい経過すると、その枠(割り当て制限)が外れ、自由に誰でも輸入できるようになってしまった。

それと同時にATGで上映していたゴダールやフェリーニなどの映画が一般の映画館でも上映するようになり、ATG映画の存在する意味がなくなってしまった。

自ずとATG自体の運営も危うくなり、結局は古い”戦艦ポチョムキン”や”市民ケーン”などを上映したもののこれも底を突き始める。

そんな時期にドイツではアンデレ・キノ(別の映画の意、これまで制作された映画に対するアンチテーゼも含)が勃興し始め、他方フランスでは革命があってヌーヴェルヴァーグあり、アメリカではアンダーグランドシネマなどが唸りを上げながら登場してきた。

そうすると日本の監督たちも”自分たちの創りたい映画は”商業主義の中では作れなくなってきたのである。

遂に松竹の3人、大島渚、篠田正浩、吉田喜重たちは会社を去って行った。

その中で、どうしても映画を創りたいと近づいてきたのが大島渚だった。

それがATGの映画を作るきっかけとなったと葛井は語る。

当初、今村昌平の”人間蒸発(1967年)”をATGで撮ると言う話があった、しかし出来上がると1週間で日活の映画館に流れてしまった。

日活側がATGで上映したくないと言い始めた、今村監督は日活の専属監督だからという妙な理由付けをしてきたのだ。

葛井は日活側の卑劣な行為を、当時を思い出すだけでも怒りがこみ上げてくると。

これに繋がる事件もあった、いわゆる”「鈴木清順問題共闘会議」、1968年、映画会社・日活が同社と専属契約していた鈴木清順を一方的に解雇し、民間の自主上映団体シネクラブ研究会のフィルム貸し出し要求に対しては拒絶した事件(鈴木清順解雇・封鎖事件)をきっかけに、映画人が中心となって設立・活動した。

主に鈴木清順が日活を提訴した民事裁判の原告支援を目的とした団体である。”

今と違い映画という媒体が花を咲かせていた時代であったことは間違いない。

そのような中で、大島監督や篠田監督、そして恩地日出夫監督や須川栄三監督たちも映画を創りたいと葛井のところへ蜜を吸いに集まってくる。

映画人が葛井の下にやってきた理由は、ATG新宿文化で(客席数400、本来は芸術的な映画を上映する映画館だが、63年からは映画上映が終わった夜9時半からの時間帯を使って、深夜型の演劇公演を始め、注目を集めていた)レイトショー”鎖陰(足立正生監督)”の特別上映や”動物園物語(エドワード・オールビー作)”の演劇で盛り上がっていたのである。

そこには若者たちが列を成し、かつて観たこともない映画や演劇を一目見ようと待ち構えていた。

その光景を見、映画会社という柱を失った監督たちは、自分たちで映画を撮って上映する場が1館あることに望みを託したのではないかと葛井は当時の様子を振り返る。

 

ATG新宿文化は、カフェの風月堂(才能を持つ若きアーティストたちのたまり場)と並ぶ60年代末の新宿を代表する場所となった。

葛井は映画のみならず演劇も手掛け、ベケット、オルビーから土方の暗黒舞踏まで様々な舞台を企画し、またよりアンダーグラウンドな演劇空間として、新宿文化の地下に”蠍座”を設け、足立正生の実験映画や別役実の芝居を披露した。

 

“僕は5社に所属している監督たちと映画の仕事をしたくなかった、(5社協定/第二次世界大戦後、映画興行などの事業を中心に活動していた日活は、社長堀久作の下で戦前以来の映画制作再開へ動き出し、多摩川撮影所を建設するとともに他の5社から監督や俳優の引き抜きを行おうとした。

これに対抗して結ばれたのがこの協定であり、名目は映画会社同士の専属監督・俳優の引き抜きの禁止だったが、真の目的は、日活による俳優引き抜きを封じることであった。

大映社長の永田雅一の主導で五社協定審議会を開き、5章15条からなる五社申し合わせを作成する。

これを5社協定と呼ぶ)5社に所属している監督たちはいつでも映画を撮れる、それでもATGで撮りたいというなら、自分が撮りたいと推進する力が監督にない限り無理だ”と、前段で書いたように葛井は”芸術劇場であってムービーではない”ことへの情熱は何人よりも強く一切の妥協はなかった。

ちょうどその頃大島監督は鎖陰を観て、そして憂国(三島由紀夫主演・監督)を観た、劇場の周りは人人で埋まっていた。

その情景に刺激された大島監督は”ユンボキの日記(監督が韓国旅行中に撮り溜めた、主に韓国の少年少女の生活を捉えたスチール写真に、少年の手記”ユンボギの日記”の朗読をかぶせて構成された短編映画)”を上映したいと葛井の扉を叩く、上映するところはどこにもない、その映画は30分程度の作品であると思いの丈を葛井にぶつけた。

葛井は大島の提案に即オーケーを出す、その代わり大島監督の処女作である”愛と希望の街”を付けて毎日講演をするという約束を取り交わしたのだった。

ユンボキの日記、6日間の上映と講演は大入り満員で、それに味を占めた大島監督は”ATG新宿文化だけで1ヶ月上映すれば元が取れる映画を創れば良いじゃないか”と言い出した。

ユンボギの日記がヒットし、次に”忍者武芸帖”を大島監督は創っていく。

ATG新宿文化は葛井が思い描いていたあらゆる実験を試みる劇場へとさらに突き進んでいった。

葛井は前後の脈絡もなく“肉弾”という映画は好きじゃない”、と突然私に口走った。岡本喜八監督は東宝に在籍しながらどうしてもATGで映画を撮りたい、”ふすまに映しても良いから撮りたい”と岡本監督が葛井を訪ねてきたと言う。

、葛井だから言えるがこれはとても辛辣な表現である。しかし、嘘を書くのもいやなので事実として記したい、葛井はこの両氏と実験的映画を作る気など全くなかったのだ。

 

ATGには映画評論家による委員会(6〜7名)があり、その委員会に監督は出席出来ない規約になっている。

まず葛井の所に企画書が届く、あるいは監督からの相談もあったりする。

葛井は監督の企画書を持ち、委員会で監督の意図とするものを代弁する。

それは監督自身が企画書を持ち込むと、委員会もNOとは言えない、厳しいことも言えなくなるからだ。

委員会の会議は月に1回、そこで監督たちは葛井の所へ足繁く通う映画を撮りたい一心で。

しかし監督たちは企画書もプランもなにもない、葛井と共に何にすべきかの熱い議論がそこで繰り広げられるのである。

葛井は言下に、原作ありきのものは一切やらない、完全にオリジナルが原則だと。

 

“僕は映画会社に所属したこともないし、現場に付いたこともないし、それに俳優の養成所に通ったこともなければ、劇団に所属したこともない、だから素人だったわけです、それに周囲は素人だと思っていたし、それでも映画が好きです、芝居も好きです、しかも新しいものが好きなんですよ。素人だからできたのだと思う。もし知っていたら怖くてできないですよ。

演劇に於いても最高に難しい不条理の芝居をやりたかった、サミュエル・ベケットやウジェーヌ・イヨネスコのような演劇を。

誰もやらないことをしたかった、葛井は初物食いの実験好きのプロデューサーだと言われても良いと思った”と、そこには不遜な態度など微塵もなく淡々と我が道を貫く精神が満ち満ちて伝わってきた。

 

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