実験映画の葛井欣士郎が、蜷川幸雄と会った日

蜷川幸雄氏率いる、平均年齢75歳の高齢者演劇集団”さいたまゴールドシアター”がNHKBSでパリ公演に挑むまでの3ヶ月間をドキュメントした番組があった。

タイトルは”喝采~蜷川幸雄と老年俳優たち”、老いと戦う老俳優たちが何を思い、枯れゆく肉体に新たな血を注ぎ込もうとしているのか、とオンエアを心待ちにしていた。

だが、その日は運悪く外出中で放送時間には間に合わなかった、それにもまして悔しいのは録画設定をしていかなかったことだ。

反響が多ければ再放送をやるだろう、いつもいざというときに相も変わらずポカをやってしまう。

 

演出家蜷川氏もまた老齢である。

滾る想像力と生命力に目を見張るものがある、ある種の限界値を超えた身体にどれほどのエナジーが宿るのか、まさに身体論を地で行く蜷川幸雄自身が枯れゆく様の美醜と闘っているように思えてくる。

蜷川氏とは20代の前半に葛井欣士郎の事務所で出会った、その時の様子が今でも鮮明に残っている。

事務所は赤坂にあり、ATG映画と演劇を中心に企画の準備や、舞台の助手をしたりと私は彼方此方飛び回っていた。

ちょうどその頃は、実相寺昭雄監督の”歌麿 夢と知りせば”や高林陽一監督の”西陣心中”などの撮影が始まり、葛井の指示の下で慣れない現場を右往左往していた。

 

事務所にぶらりと現れた蜷川氏、傍らには就学前の娘(蜷川実花さん)が恥ずかしそうに蜷川氏に寄り添っていた。

父親にべったりだった実花さんも、いまや押しも押されぬ写真家であり映画監督だ、はにかむ幼女の顔から大胆な色彩が生まれるなんて想像もできなかった……隔世の感を禁じ得ない。

当時、蜷川氏は舞台俳優として活動していた、舞台では生活もままならず飯の糧にと映画やテレビなどにも出演していたが、仕事の面では恵まれてはいなかったように思う。

強面の役やストイックな役柄が多かったと記憶している、私は葛井と蜷川氏の会話をはっきりとは聞いていないが、仕事の相談を葛井と話していたようだった、つまり売れない俳優だった。

天賦の才能と実力があったとしても不運に見舞われるときがある、それは俳優に限らずいかなる職業に於いてもだ。

何事もタイミング、しかしその時期がいつどんな場面でやってくるかは誰も分からない。

常に絶望と希望は振り子の如く、交互に私たちをあざ笑い感情を蹂躙する。

友人にも舞台役者がいるが、今もなお生活は決して潤沢とは言えない、またそれに関わる劇作家や演出家も同じである。

 

市ヶ谷の葛井宅で会話していたとき、蜷川氏のことが話題となった。

“蜷川さんが目の前に現れたとき、ATG映画の出演の売り込みかと思った、彼の口から演出をしたいと。

蜷川さんは迸るように演劇の新しい企画を喋りだしてくる。

既に台本は出来ていて清水邦夫の台本(があふるる軽薄さ/1969年)があった、それはアートシアターにモブとなって並ぶ若者の行列をテーマにしていた。

それを聞き、僕は即座にOKを出す、すると蜷川さんは吃驚して目を丸くした。

蜷川さんは言う「現在あるのは葛井さんのお陰だ」”と、しかし葛井はそう思っていなかった、彼らに才能があったから、しかも東宝にいったからなのだ。

葛井は蜷川氏にこう言った”ATGの映画は題名の次に大きく書かれるのは監督、スターよりも監督は大きいのだと。

だから蜷川さんに舞台(初めて手掛けた作品、ロミオとジュリエット)をやるなら蜷川演出作品と書くべきだとアドバイスした”それ以降の蜷川氏の鬼気迫る演出は誰もが知ることとなり、余りある才能がようやく花開いたのだった。

NINAGAWAの名は世界へと飛翔していき、日本版シェークスピア劇は蜷川の独壇場となった。

 

 

2014年6月の週刊読書人に”60/70年代前衛芸術-新宿が最も熱かった時代、ぼくらは–”という見出しに蜷川幸雄のインタビュー記事が載っていた、葛井欣士郎との思い出が綴られていたのである。

若いとき劇団仲間だった蟹江敬三、舞台美術家の朝倉摂(近松心中物語で舞台美術を手掛けた)、そして寺山修司の元妻であった九條今日子の死が立て続けにあり、その哀しみが鎮まらない内に、葛井の死を知った。

“葛井さんの時はショックだった、1960年代、あるいは70年代という時代が持っていた、ある運動や空気があって、葛井さんが亡くなったことで、ある意味で一区切り付いたんじゃないか。

はっきりひとつの時代が、ガチャッと音を立てて終わってしまったというのが正直なところでした。”

幸いにもインタビュー記事の中で葛井との縁に触れている、アートシアター新宿文化で作品を上演するきっかけである。

“朝日新聞に蟹江敬三の追悼文を寄せた時にもちょっと触れたんですが、僕も蟹江も”青俳(元・新協劇団の岡田英次と織本順吉、清村耕次、元・文学座の金子信雄、元・劇団俳優座の木村功、民衆芸術劇場や劇団俳優座でマネージメントをしていた本田延三郎らが1952年に設立した”青年俳優クラブ”を前身とする。

その後、名称を劇団青俳と改め、映画製作にも関与。

1950年代の半ばまでに高原駿雄、蜷川幸雄、西村晃、高津住男、小松方正、川合伸旺、梅津栄、青木義朗、倉橋健、佐藤信らが参加する)”という劇団にいたんですね。

ただ、青俳の中での路線の違いをめぐり激しい対立をして、結局ぼくは劇団をやめることになった。

その時、一緒にやめた蟹江や石橋蓮司たちとともに、劇団現代人劇場を結成する。

1968年のことです。

劇団を作って芝居を上演しようと思ったときに、ぼくらにはどうしてもやりたい劇場があったんですね。

それがアートシアター新宿文化だった。

当時のぼくらにとってアートシアター新宿文化は、憧れの映画館であり劇場だったわけです。

明治通り沿いに、墓石みたいな真っ黒い建物があって、一歩中に入れば、入口には、岡本太郎さんが作った”座ることを拒否する”が2脚並んでいた。

地下に降りていくと蠍座がある。

チケット売り場は明治通り沿いにあって、その横に鉄線の入った、分厚いガラスの扉があった。

68年の春、この扉を叩いて、初めて葛井さんにお会いしたんです。もちろん、それまでにも葛井さんという人を遠目に見ていて知ってはいたけれども、直接会ってお話ししたのは、アートシアター新宿文化の事務所を訪ねていった時のことです。

アートシアター新宿文化の支配人だった葛井さんを訪ねた。

“葛井さん、この劇場で芝居をやりたいんです。

演出をさせてください”とお願いしました。

事務所が狭かったこともあって、裏にある喫茶店に連れて行ってくれて、そこでコーヒーを飲みながら話しをしました。

”レパートリーを何本持っていますか”と葛井さんが訊いてきたので、”3本用意します”とぼくは応えた。

そこで自分で書いた企画書のようなものとシノプシスを渡したんですが、その内の1本が” 真情あふるる軽薄さ”という清水邦夫の芝居だったんですね。

葛井さんが3本の中から、この芝居を選んだんです。

 

蜷川氏が葛井と出会わなかったら、それでも蜷川氏は舞台の先端で活躍しているだろう、それは必然であり、偶然ではない。

真情あふるる軽薄さをきっかけに、舞台への情熱はさらに猛進し加速していった。

舞台俳優から演出家へと転身した蜷川氏、まだまだ枯れる年ではない、それは世界が許さないであろう。

 

 

 

 

 

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