フランツ・フォン・シュトゥック ~私の恩師~

The Museum Villa Stuck in Munich

The Museum Villa Stuck in Munich ©Wikipedia

 

 

恩師の記憶

あなたには、恩師と呼べる人が何人いるだろう?

垂乳根の 母が釣りたる 青蚊帳を すがしといねつ たるみたれども

長塚 節

 

この短歌を教えてくれたのは、中学校時代に通った塾の国語講師だった。戦争を生き抜いたお爺ちゃん先生で、文字通り生き字引のような人だった。背の曲がった母が息子のために釣った蚊帳は、綺麗に張れずにたるんでいるという場景を黒板に記して、下手な絵と共にその歌の意味を教えられた。情景を頭に浮かべた私は「母」の深い愛を感じると同時に、作者の母が年老いてしまったことに悲しみを覚えた。歌と共に、先生の絵や言葉も特別な記憶として心に刻まれている。

大学卒業後に旧友を再会した時には、皆で通った塾の思い出話で盛り上がった。例えば、「入れ物がない 両手で受ける」という現代俳句の話。字足らず字余りのこの俳句が伝える当たり前な状況を、14歳の私たちは爆笑し、10年以上経っても思い出してまた笑った。言葉の魔法は、時を越えて幸せや笑顔や感動をくれる。いつまでも、いつまでも。

次に人生を変えるほどに素晴らしい時間をくれたのは、大学の教授たちだ。芸術の素晴らしさを煌めく言葉で語ってくれた。こうして芸術についてコラムを書いているのも、言葉の魔法と芸術の素晴らしさを教えてくれる恩師たちのおかげだろう。師の存在は、人々の人生に大きな影響を与える。時には家族や伴侶、親友よりも強く、人を導く力がある。

 

二人の名教師

絵画や美術の分野で名教師といえば、ギュスターヴ・モローではないだろうか。その教え子にはアンリ・マティスやジョルジュ・ルオーらがいる。モローは自分の主義を押し付けることなく、生徒それぞれの作風や個性を大切にした。そうして生徒の才能を伸ばすことに努めた。未熟なマティスやルオーの才能を早くから見抜き、全く異なるタイプの作品を描く彼らに対して適切な助言や指導を行い開花させた。二人はフランスを代表する画家となり、モロー先生を彼らは生涯「師」と呼んでいた。尚、ルオーはギュスターヴ・モロー美術館の初代館長を務めた。

フランス絵画の名教師がモローだとしたら、ドイツ絵画界では象徴派の画家シュトゥックではないかと思う。世界中で展覧会が開催される人気画家モローとは異なり、シュトゥックは日本ではそれほど有名ではない。私にとってはダ・ヴィンチに並んで一番好きな画家なのだが、専門書などを探してもほとんど資料といえるものが存在しない芸術家だ。彼の教え子には、パウル・クレー、ヨーゼフ(ジョセフ)・アルバース、ハンス・プルマン、エルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナー、オットー・ミュラー、オイゲン・フォン・カーラーなど多数の画家がいる。その中でも興味深いのはクレーと同時期に教室に通ったカンディンスキーである。クレーもカンディンスキーも大変有名な画家となり成功したが、シュトゥック教室でのカンディンスキーは落ちこぼれだった。当時、大変人気のあったシュトゥックの教室に入学することは困難で、カンディンスキーはデッサン力が不足していたために不合格となっている。独学で猛特訓をして再受験し、入学ができたのは2年後だった。念願叶って入学した後も、彼のデッサン力をシュトゥックは指摘したが、まだ誰も認めぬカンディンスキーの才能に気が付いていたとも言われている。

 

貧しい少年がプリンスになるまで

 19世紀末のドイツで、退廃的な世界と緻密で優美な画風で大成功を収めたフランツ・フォン・シュトゥック。中でも〝運命の女″ファム・ファタールを描いた作品は有名で、生首を手に入れて踊る≪サロメ≫や、大蛇を裸体に巻きつけ妖しげな視線を向けるイヴの姿を描いた≪罪≫などは日本の展覧会にも何度か展示されている。

彼は1863年、ドイツのテッテンヴァイスで粉屋を営む家庭に生まれた。家は裕福ではなく、父ミュラーは画業よりも家業を継ぐことを強く望んだ。将来の事で衝突を繰り返した父が早くに亡くなり、シュトゥックは自分の望み通り美術学校に進学する。折角入学できたわけだが、貧しい青年には学校に通う時間などほとんどなく、生活費を稼ぐために雑誌の挿絵などを描いて暮らした。転機が訪れたのは、1889年である。万博で金賞を受賞し、実力と評価を手に入れた。世紀末という時代に主題と画風がマッチしていたこともあり、その後は大変順調に成功を手に入れた。ミュンヘン分離派の創設メンバーとなった後、ミュンヘン美術アカデミーの教授職を得る。

シュトゥック教室は人気となり有能な生徒が多く集まってきた。前述のカンディンスキーやクレーもそうした有能な若き芸術家たちだった。後に二人の教え子は、ドイツの前衛芸術を代表する美術学校バウハウスの教授となっている。またミュラーは入学を望むも定員オーバーで次期を待って受講し、エミール・ノルデはシュトゥックの教室に入学を望むも叶わなかった画家の一人である。

人気教授は1905年には貴族の称号を貰っている。粉屋の息子から彼は華麗に転身した。そのためプリンスという呼び名やデッサン王、絵画王、画壇王といった「王」という表現をされている。同時に彼の生活も、王子や王と呼ばれるに相応しい盛大な晩餐会や贅沢な日々を送っていたようだ。それは彼が遺した最大の作品、シュトゥック邸が物語っている。

 

王の城

ヴィラ・シュトゥックというのは、芸術家シュトゥックが造った家である。彼は1897年にアメリカ人女性メアリ・リンドペインターと結婚をした。新居を自ら設計し、家具などの調度品も全て自分で制作していった。妻メアリは5年前に医師だった夫と死別しており、シュトゥックには既に婚外子がいたため娘マリーを養女として引き取って家族3人で暮らした。妻と娘はモデルとしても頻繁に作品に描かれていることからも、幸せな生活だったことが想像できる。そして、才能と成功に裏打ちされた優雅な生活を送っていたのだろう。ヴィラ・シュトゥックは、個人の家だったとは思えない豪邸である。荘厳で優美な装飾が施された外観、内装や調度品も全て含めて美の極みといった建築だ。

この家の家具はパリ万博に出品され金賞を受賞している。そして、今では世界中で一番多くのシュトゥック作品を所蔵する彼の美術館として一般に公開されている。私が思うに、これだけ非凡な才能のある芸術家が一世紀後の今に正当な評価を得られていないのは、大部分の作品がこの手作りの家の中に残され、半世紀前まで公開されないままだったことが原因だと思う。死後、忘れられたシュトゥックの美は、これから徐々に正当な評価をされていくだろう。

 

絵画王シュトゥック

ミュンヘン美術アカデミーの教授となったシュトゥックは、モローとは異なり自らが得意とするデッサンを非常に重視した。デッサン王や絵画王と呼ばれたくらいに緻密な絵を描き、世間からもその評価は高かった。彼は厳格な教授だったのだろう。そして若き画家たちにとって、偉大な存在だった。

それが生涯の忘れられない恩師だったのかどうかは分からない。しかし学生時代にデッサン力のなさを自覚させられながらも画業を進み、写実から離れて表現主義へと向かった教え子カンディンスキーにとっては、忘れがたき恩師であったのではないかと思う。カンディンスキーは、デッサン力の求められる写実的な絵を描いて成功したわけではない。世紀末絵画には使われなかった強烈な色彩を用いて、旋律さえも感じさせる抽象的作品で評価を得た画家だ。同じくパウル・クレーも決して恩師に学んだデッサン力を重視した作風ではない。

形態を重視した厳しい指導を受けた彼らが、抽象的な形態と鮮やかな色彩に目覚めたことは無関係とは思えない。時代性というものも、もちろん大きい。しかし時代や風潮とは別に、越えられない恩師と異なった表現の道を模索して、自由な形と色彩表現に可能性を見出したのかもしれない。

 

 恩師を見つける

学生という身分ではなくなると恩師と呼べる人には出会えないと思っていた。しかし私は社会に出てからも恩師と思える人を見つけられた。それは通信会社で働いていた頃の上司だ。威張る事もなく、社員や派遣など業務形態で差別することもなく、新人がいくら無知でも咎めることがなかった。質問すれば丁寧に教えてくれる優しく親切な人物だったが、バイタリティー溢れるタイプではなかった。当初私が思い描いていた大企業のリーダー像からは、遠く離れていたと言える。しかし、その少しマイペースな上司は、殺伐とした空気を穏やかに変えて温かい環境を作れる人だった。不思議な才能だと思った。人への接し方や教え方など、仕事だけではなく色々な事を教われた気がする。この人の下でもっと学びたいと思っていたので、異動の時には尊敬できる人の下で働きたいと抗議したほどだ。今まで習い事や学校で出会った恩師たちと同じくらい、大切なことを教えて貰えたと思う。それと同時に、目を凝らせば周囲には師となる人物がいるという嬉しい事実に気付かされた。

 

師を見つけることは難しい。しかし何かを言葉で教われる機会が無くとも、見習うべき人や物は周囲に溢れている。どれだけ多くの師を見つけ、どれほど多くのものが得られるか、これが豊かな人生のコツかもしれない。カンディンスキーやクレーのように、偉大な師から多くを学んでも後を追わずに自らの道を見出す者もいる。ロダンとカミーユ・クローデルのように影響しあいながら同じ道を歩み、共通のテーマに取り組むような関係もある。誰を師に思うか、そして何を学び吸収してどのような道を選ぶか、すべては自分次第なのだ。

そして最後に、1つの芸術作品に対峙する時も同じように思ったらどうだろうか。作品から何を感じ、何を学ぶか。それも自分次第だ。有名作品だけが名作ではない。自分にとっての名作を眺めれば良いと私は思う。自分が学ぶ視線さえ持っていれば、死せる数多の巨匠たちを師と仰ぐことさえも可能なのだから。

 

註:「垂乳根の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども」長塚節

早逝した長塚が病を患ってからの作品。

現代の言葉に直すと、「お母さんが釣ってくれた青蚊帳はたるんでいるけれど、清々しいと思って眠った」という意味の短歌。

年老いた母が我が子を気遣って、自ら蚊帳と寝床を用意したことが歌からも分かる。久しぶりに病院から実家に戻った長塚が、母の優しい想いを感じながら心地よく眠れたことを歌っている。

 

フランツ・フォン・シュトゥック(Franz von Stuck)の成功にまつわる略年表
(1863年2月23日ドイツ テッテンヴァイス―1928年8月30日ドイツ テッチェン)
 
1863年 ドイツのニーダ・バイエルン地方テッテンヴァイスで、粉屋の家に生まれる。
1872年 ミュンヘンに移住。
1878年 パッサウの高校を卒業し、画家を目指してミュンヘンへ移住。
1881年 家業を継がず、ミュンヘンの工業美術学校に入学。レンバッハ、ベックリンなどの影響を受ける。『フリーゲンデン=ブレッター』の編集部で挿絵を描いて生活費を得る。
1889年 パリ万国博覧会で金賞を受賞。
1892年 ミュンヘン分離派の創設に参加。
1893年 シカゴ万国博覧会で金賞受賞。
1895年 ミュンヘン美術アカデミーの教授となる。カンディンスキーやクレー、ジョセフ・アルバース、キルヒナーなどを輩出。
1897年 3月15日アメリカ人女性メアリ・リンドペインターと結婚。新居ヴィラ・シュトゥックの設計から内装、インテリアに至るまでも全てを制作。
1900年 ヴィラ・シュトゥックの家具を出品した1900年のパリ万博で金賞受賞。
クレーとカンディンスキーがミュンヘン・アカデミーのシュトゥック教室に入学。
1905年 12月9日に貴族の称号を得る。以降、サインもフランツ・シュトゥックではなく貴族の称号「von」が加わったものとなる。
1909年 ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。
1917年 5月30日、娘マリーが建設業アルベルト・ハイルマンを結婚。
1928年 享年65歳でテッチェンにて逝去。ミュンヘンの墓地に埋葬される。翌年亡くなった夫人も隣に眠る。
1968年 ヴィラ・シュトゥックが一般に公開され、現在は美術館となっている

 

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