マックス・エルンスト ~幼き日の記憶~

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マックス・エルンスト©Wikipedia

 

 

幼い頃、私は父とよく散歩をした。近所の団地の角に一年中背の高い木々が生い茂っている場所があった。距離にして家から500mくらいだが、当時は遠くだと思っていた。父はそこに来るといつも、サッと木の陰に隠れてしまう。「パパどこぉ?」と私が大きな声で呼ぶ。3回ほど呼ぶと、父が「こっこえー」と答える。「ここだよ」という意味で当時の私が使っていた言葉だ。このかくれんぼは、父と私にとって崇高な儀式のようにこの場所で幾度も繰り返された。私たちはその一角を「暗い所」と呼んでいた。父と遊ぶ大好きな場所だったが、同時にそこは恐怖に満ちていた。木の葉に遮られて光の届かない空間は、真夏でも薄暗く涼しい。そしていつも突然父が消えてしまう。自分を置いて居なくなるわけがないのに、「こっこえー」の声が聞こえないと泣きながら必死で父を探した。「暗い所」は、私にとって暗い森だった。途方もなく広くて、昼間の熱を吸収して夜の影を吐き出す危険な場所。

数年前に育った街を訪れたが、残念なことに「暗い所」は光に屈服していた。そして正直なことを言うと、そこはテニスコートの半面の広さもない空間に見える。父と私の神聖な森は、ただの木立だった。目を疑う事実だが、子供の想像力と恐怖心というのは別世界を生み出してしまうのだろう。

 

ドイツ生まれの画家マックス・エルンストは、想像力と恐怖心が生み出す別世界を見つめた芸術家だ。幼い頃より彼は、鋭い洞察力と豊かな感受性、優れた想像力を備えていた。彼の技法や繰り返し取り組んだ主題には、幼年期の恐怖や幻覚と深い関係がある。今回は芸術家エルンストの生い立ちに限定して、何と出会いどのような影響を受けていったのかを見ていきたい。

 

1891年、マックス・エルンストはドイル、ケルン近くブリュールに生まれた。父フィリップは聾唖学校教師で、素人画家でもあった。教会の依頼で祭壇画を描いたりもしている。そんな父の背中を見てエルンストは画家を目指したかと思われがちだが、そうではない。少年は厳格なカトリックの父に対して反発心を抱いており、幼い頃は大きくなったら「踏切番になる」(おそらく、この踏切番というのは線路や踏切を監視する仕事)と考えていた。しかし父の存在は、画家マックス・エルンストの誕生に深く関わっている。

3歳の時に父の水彩画を見たのが、絵画との出会いだった。またその頃、父フィリップは初めて息子を森に連れて行く。育った家の近くにはケルンのお城があり、彼の絵画作品に登場するようなラインラントの自然、神秘的な暗い森があった。「森」はエルンストにとって「鳥」と並んで最も重要な主題の一つとなった。エルンストの作品世界は、3歳の頃に起源があると言えるだろう。

彼が初めて「死」と接触したのは、6歳の時だ。1歳年上の姉マリアが亡くなった。同年マックス少年は、はしかを患う。熱を出しベッドで横たわっていると、正面に見える模造マホガニーの羽目板から次々と幻覚が呼び起こされた。この経験は、板や葉の上に紙を置き鉛筆などで擦ってその模様や質感を写す技法「フロッタージュ」の誕生に繋がったと言われている。またその時見た幻覚は、鳥の頭や目玉といった奇怪なものだったという。フロッタージュは、その体験から20年近く経った1925年頃にエルンストが生み出した絵画技法で、作者の意識が介入しえないその手法はシュルレアリスムを知る上で欠かせないキーワードの一つである。

更に15歳の時、愛鳥のインコの死を経験する。新しい年を迎えてすぐのことだった。朝起きるとインコはすでに死んでいた。賢く優しい桃色インコのボルネボムは、少年にとって親友だった。すると数分後、父が妹ロニの誕生を知らせた。インコが死んだ夜、妹が誕生した。この事実は少年にとって一連の出来事のように認識され、ひどく混乱させた。鳥の命が、赤ん坊に奪われたかのように思われ、彼の中で鳥と人間とは関係性を持った生き物となったのだ。だからこそ鳥は神聖な存在でもあった。この経験が、エルンストの作品に鳥の頭を持った人間や鳥類の王ロプロプなど鳥が多く表現されることに繋がっている。ロプロプは自らの化身だと言い、生涯通じて「鳥」そして「森」を描いた。

またある時はイラストを眺めていると、図像が頭の中で重なり合って全く関係のない新しい物語が生みだした。その経験をもとに1919年、イラストを切り貼りして新しいイメージを作り出す技法コラージュを誕生させる。既にピカソらがパリエ・コレという切り貼りの手法を発表していたが、エルンストが行ったのは異素材を貼り付けて全く無関係のイメージを生み出すという新しい試みだった。

エルンストは、大学を卒業して独学で画家の道を歩み始め、ダダに始まりシュルレアリスムの中心的存在となった。また既述したフロッタージュ、コラージュの他にもグラッタージュやオシレーションといった独自の技法を生み出している。

マックス・エルンストが取り組んだ主題や技法の多くは幼い日の記憶に起源がある。その表現は厳格なカトリックの父には受け入れられなかった。故郷を捨てパリで活躍したのは、そうした理由もあるのかもしれない。彼は恋多き男でもあり、4度の結婚をしている。その時々の恋人や妻のために作品を制作した。戦争を避けてアメリカで活動していた時期もあるが、戦後はパリに戻り、84年と364日の長き人生をパリで終える。

 

私の通った小学校の「図書」という授業は、文字通り図書館で好きな本を読んで過ごす時間だ。以前、ルネ・マグリットの回で書いたように、大型本コーナーは私の縄張りだった。誰も近寄らないそこには、澄んだ空気が漂っているように感じられた。喧噪の片隅で少し冷たい床に寝転がるようにして飽くことなく眺めた画集は、マグリット以外にもある。例えばマックス・エルンストもそうだ。どちらもシュルレアリスムに属するが、単純に不可思議な絵が面白かったわけではない。私がエルンストの作品に魅了されたのは、神秘的で恐ろしさも感じさせるあの暗い森のせいだ。初めて見た瞬間に、あの森に迷い込み囚われた気がした。そのため自ら選んで画集のページをめくるのに、描かれた森や鳥が怖かった。エルンストの森はどこか「暗い所」に似ていたのだ。父と私の遊び場であり、神聖な儀式の場であり、夜が昼に勝る異空間。

エルンストの森は永遠の夜を貪り、石化する一方で生命を宿らせる。もし勇気があるのなら、作品の正面に立ちマックス・エルンストの森を彷徨ってみると良い。鳥に変わろうとしている枝葉、巨石となった樹木。そんな異世界の中には、自分の迷いや過去さえも見えてくるかもしれない。

 

※マックス・エルンストが生み出した技法と好んだ技法※

 

 

フロッタージュ:岩や木の粗い面に紙をあて鉛筆でこすって凹凸を転写する技法で、物質に触発された意識下のイメージを表わす技法とされている。(エルンスト発案)

 

コラージュ:異なる素材を画面に貼り付けて新しいイメージを作り出す技法。ピカソやブラックの行ったパリエ・コレを発展させた新しいアプローチともいえる。その差がわかりづらいので私の解釈を補足すると、パリエ・コレは日常との繋がりを求め現実と密接に関わる新聞や手紙といった素材を好む。そのため素材と作品は同じものを表しているが、コラージュは全く別のイメージを生み出すための手段である。(エルンスト発案)

 

グラッタージュ:フロッタージュの油彩画バージョンといった技法で、絵具を塗ったキャンバスを物体の上に置き、パレットナイフなどで絵具を削り取る。するとキャンバスの下にある物体の凹凸が反映される。画面上に物体の質感を浮かび上がらせる技法。(エルンスト発案)

 

オシレーション:絵具の入った缶に穴を開けて、缶をキャンバスの上で振りまわして描く技法。偶然性や意識下のイメージを表現するシュルレアリスムらしい手法だが、後にポロックが巨大な画布の上で刷毛などを振り回して絵具を垂らした「ドリッピング」や「ポーリング」とその工程は似ていると私は思う。(エルンスト発案)

 

デカルコマニー:これはエルンストが発見した技法ではないが、よく彼が用いた技法。紙に絵の具を塗り、二つ折りにするか、別の紙を押しつけてはがす時に生じる偶然の形態の効果に注目したもの。(オスカー・ドミンゲス発案)

 

マクシミリアン・エルンスト (Maximilien Ernst)の技法と親しい人々にまつわる略年表
(1891年4月2日ドイツ ブリュール ― 1976年4月1日フランス パリ)
1891年4月2日 ドイツ、ケルンに近いブリュールに生まれる。
1894年 3歳の時、父の水彩画で絵画に接する。また父が初めて森へ連れて行く。
1897年 6歳の時、姉が亡くなる。はしかにかかり初めての幻覚を見る。
1909-12年 ボン大学で哲学を専攻する。
1912年 展覧会を見て画家を志すことを決める。
1913年 アルプと親交を結び、ベルリンのサロンに初出品。
1918年 大学時代の同級生、美術史家ルイーゼ・シュトラウスと結婚
1919年 アルプらとケルンにダダ運動を展開。イタリアの雑誌でキリコの作品を見て啓示、影響を受ける。ダダイストとしてコラージュの技法を発展させた。
1920年 ダダの運動は急速に衰え、アルプはチューリッヒに戻る。6月24日、ルイーゼが息子ジミー・エルンストを出産。
1921年 夏にアルプ、ツァラ、ブルトンと再会。
1922年 ポール・エリュアールに誘われて、妻子を残してパリへ転居。タンギーやピカビアら前衛芸術家らと親しく交際。親友エリュアールの家に同居し、既婚者同士にも関わらず、親友の妻ガラと関係を持つ。これは夫公認の関係。
1925年 独自の技法としてフロッタージュを誕生させる。
1926年 ルイーゼと離婚。
1927年 映画脚本家ジャン・オーランシュの妹マリー=ベルト・オーランシュと結婚。
1929年 コラージュ小説『百頭女』を出版。ダリの映画に出演。
1936年 画家レオノール・フィニと付き合いだし、妻マリー=ベルトと別れる。
1937年 画家レオノーラ・キャリントンと出会い、後に1年間ほどパリで同棲する。
1938年 ブルトンがエリュアールをグループから追放しようとしたことに反対し、シュルレアリスムのグループを去る。
1941年 第二次世界大戦の戦禍を避けてアメリカに渡る。渡米に力を貸したペギー・グッゲンハイムと結婚するも、その後離婚。
1943年 ドロテア・タニングと出会い交際が始まる。
1946年 タニングと結婚してアリゾナへ移住。
1949年 前年にアメリカ国籍を取得するが、パリへ戻る。旧友と再会。
1954年 ヴェネツィアのビエンナーレで大賞を受賞。過去に決別して和解したブルトンが、この受賞を非難してグループ追放を宣言したため絶縁。
1975年 グッゲンハイム美術館で大回顧展。
1976年4月1日 85歳の誕生日の前日に、パリにて死去。

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