アートは故郷を救うのか……福島を離れた友へ

東日本震災が4年目を迎えようとしている、町の中心部は瓦礫や崩れた家が片付けられ道路も整備された。だがいまだ町の復興は依然として進んでいるようには思えない。波に呑み込まれてしまった家々……木くずと泥にまみれた土地だけが残り、人々の長い歴史に刻まれた思い出は自然という牙に打ちのめされてまった。震災の爪痕は、風化の景色に変わり田畑は雑草に覆われ、人々はひとりそしてまた一人と生まれ育った故郷を離れていく。

瓦礫の山から復興し、新たな町が生まれていることも確かだ、だが福島だけは復興どころか放射能汚染の処理に苦しみ、出口が見えない状態だ。そしてとうとう放射性廃棄物を保管する中間貯蔵施を、双葉町と大熊町は汚染土壌搬入の受入を決定した。

大熊町

この大熊町に友人Uが住んでいた、Uは高校卒業までここで生まれ育った。太平洋を望む所にUの家はあった、気候も温暖で肥沃な土地に恵まれ農作物はふんだんに穫れた。Uは高校を出ると東京の大学へ進学し、卒業後は翻訳会社に就職した。Uとの出会いは翻訳会社だった、知り合って30年は経つだろうか。Uと知り合うまでは大熊町の存在すら知らなかった、観光スポットを見ると海と山に囲まれた風光明媚な地域であることを後に知る。

その数年後、仕事がらみで知り合ったのもつかの間、会社を辞めてしまう。Uにはふるさとに帰り事業を興す夢があった、カメラのレンズ研磨の会社である。それを実現するためには修練が必要で、千葉のレンズ研磨会社へと転職していったのだった。土日はふるさと大熊町に帰り、レンズ研磨の作業場を作り研磨の腕を磨いていった。そして結婚、しばらくは千葉と大熊町を行き来しながらの生活が始まる、やがてUは2人の娘を授かる。Uは結婚後、暮れになると必ず餅を送ってくれた、Uの父親と杵で餅をつくのである。Uの田圃で収穫した餅米で餅をついてくれる、種類は白もち、豆もち、ゆかり、青じそ、青のり、紅もちと大きな段ボールに餅がぎゅうぎゅうになるほど詰められ送られてくる。そればかりではない、餅と共に野菜も入っているのだ、大根、自然薯、さといも、白菜等々全てUの畑で穫れたものばかり。近くのスーパーで買ったものとは比べものにならないほど新鮮で甘味がある野菜、餅も野菜も格別だった。それもあの福島第一原子力発電所事故前までは……千葉と大熊町の往来がなくなり敷地内に新居を建て、そして法人を設立しようやく軌道に乗ってきたところに、あの3月11日の東日本大震災に見舞われてしまったのだ。Uは言っていた”地元に勤め口が少なく、働くと言えば原子力発電所しかない。少しでも働く場所を提供できたらと、そのために会社を興した”と物静かなUは笑顔で話してくれた。

当時、私は国会中継を見ていた。2時40分、突然大きな揺れと共に地鳴りのような音がし、国会中継からニュース速報特番へと画面が切り替わった。画面からは尋常ではない様子が伝わってくる、揺れの強さに戦き外へ出た。すると自宅前の道路が波打っている、過去に1度も見たことのない風景だ、下校帰りの小学生たちは打ち震え立ち止まって泣いている。空は灰色に染まり、淀んだ空気が流れこの世の終わりかと思えるほどの陰鬱さが漂っていた。

テレビからは津波で町を襲う画面、そして原子力発電所の異様な様子が映し出されている。心が震えた、そしてUのことを思った。携帯へ連絡する、当然回線はパンク状態となり繋がらない、それでも携帯を鳴らし続けた。

4月初旬PCにUからメールが届いた、”大熊町は4/3日、4日、避難所の移転があり○○体育館の避難者の移動は3日でした。私と父、母の3人は○○ホテルに振り分けられました。7月までの予定です、移動前にスクリーニング検査を受けなければならず、体育館は1日検査ということで急遽千葉からレンタカーを借りて対応しました。4日に滞在に必要な買い物をするため、ふもとの猪苗代町のスーパーにでかけ午後8時ごろ新潟にいる妻と子どもたちに会いに行きました。千葉には昨日午後4時ごろ着いて仕事をしています。ホテルには偶然ですが父と母の友人が大勢合流したようで、2人とも感激しています。このホテルなら私が千葉で仕事をしていても安心ですので、原発の動向もありますが7月まではこの状態で様子を見ようと思います”とあった。家族と散り散りばらばらになっての生活、想像に余りあるほどの深刻さだ。だがUは一言も不平不満も言わず冷静に進捗状況を知らせてくれた。この現況になんの手助けもできない自分がもどかしく、自身の非力さを恨んだ。

3年目を迎えた3月11日にUからメールが届いた。3箇所生活(千葉・福島・新潟)していたU家族は、新天地の茨城県へと移住していったことが綴られていた。両親は仮設住宅からいわき市に永住の地を求めたという、Uは両親を説得したが県外へいくことを望まなかった。Uは原発事故に対して一切触れてない、会社も生まれた土地も、農地も全て失くしてしまったのに彼のメールは明るいのだ。中学1年と小学5年になる娘さんが県の作文で知事賞を受賞、もうひとりは地区大会のテニスで優勝し全国大会を目指していると。Uからは何一つ不満が聞こえてこない、慣れない土地で家族は直向きに生きている、頭が下がる思いだ。メールの末尾にこんなことが書かれていた。

“これまでアートとはまったく無縁な生活を送ってきましたが、ふとしたきっかけで福島藝術計画というサイト(http://f-geijyutsukeikaku.info)を知りました。東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業です。アートで心のケアと復興・復旧を支援していこうというプロジェクトが福島と東京そして公益財団法人東京都歴史文化財団の三者が共催し立ち上げたようです。ふるさとを離れてしまいましたが、心の傷を癒やすには時間が掛かります、その傷を快復する力がアートにあったなんて想像だにしていませんでした。

そこにはこんなことが書かれています。

「福島の未来を担う子どもたちが、ふるさとの自然や文化を体験し、心豊かに成長していくこと。福島県ならではの多様な文化を地域の隔たり無く分かち合い、もう一度その素晴らしさを互いに見直すこと。福島の現状や未来のことを考え、創造する場を持つこと。福島の宝や人の思い、そして大切な何かをつなぎ・つたえていく。そうした動きが、福島の復旧・復興に向けて大きな力になると信じ、「福島藝術計画×Art Suppot Tohoku-Tokyo」は前進します」と。この文言は福島県人にとって勇気づけられます、私たち家族はふるさとを離れてしまいましたが、いつか戻れることを願って止みません。また、チェルノブイリ原発事故被災の人々とともにアートで発信する日本人女性カメラマンのサイトを見つけました。(http://www.apch.jp/jp/artproject/index.html)。”

 

大人も子どもも手に負えない深い心の傷を負ってしまった、私たちはその痛みを頭で理解するのではなく、身体で感じとるものなのだと思う。闇を除去するには時間が必要だ、アートに西洋医学のような即効性はないが、きっとじわじわと温かなものが心のなかに染み入っていくことだろう、ピカソが描いたゲルニカのように。” 牡牛は牡牛だ。馬は馬だ。・・・もし私の絵の中の物に何か意味をもたせようとするなら、それは時として正しいかもしれないが、意味を持たせようとするのは私のアイディアではない。君らが思う考えや結論は私も考えつくことだが、本能的に、そして無意識に、私は絵のために絵を描くのであり、物があるがままに物を描くのだ。”Uとの交信は昨年の3月で止まったままだ、正直何も言えない

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