生活デザインを極めるパーマカルチャーの行方

 

パーマカルチャー……聞いたことあるだろうか。久しぶりにネットで関連記事を検索すると、パーマカルチャーのリンクの多さに驚き、新しい生活様式を渇望する人々の多いことにあらためて痛感した。

Permanent(永続的な) Agriculture(農業)、またはCulture(文化)を組み合わせたこのPermacultureという造語は、1974年にタスマニアのビル・モリソンとデビット・ホームグレンらによって生まれた生活デザイン体系を指す言葉。突き詰めて言えば、自然と調和した人間の生活を提案していくデザイン論のような意味になるだろうか。一時期、ロハス、サステイナブル、オーガニック、食育という言葉がマスコミ等で賑わせていたが、ここへ来て少し落ち着いたのかあまり言葉を聞かなくなった。健康志向は文明国ほど強く、近年は中国もその仲間入りのようだ。日本食が健康に良いと聞けば、我先にと買い物に走る人々もいたりしていつの世も人間の強欲は限りない。そんな世の中に一石を投じたのがパーマカルチャーだ、サプリメントや薬などを服用した健康管理ではなく、自然のエコシステムを参考に持続可能な生活空間へと根本から変えていこうという試みなのだ。

それは、自然の中に存在する多種多様な動植物(資源)との関係性を読み取り、そこに人間を組み込み、自然環境とも共生しながら有効利用していく取り組みである。モリソンとホームグレンの2人はオーストラリアのタスマニア大学で教鞭を執っていた学者だったが、パーマカルチャーのシステムを確立するために教職を辞し、望ましい生物学的システム作りを人々に説いて回ることだけに専念する決心をした、今から41年前のことである。

提唱者のモリソンは言う、”文化というものは、永続可能な農業と倫理的な土地利用という基盤なしには長くは続きえないものだ”と。自然に流れている比較的無害なエネルギーを用いて、豊富に得られる食物や天然資源を利用し、永続的に地上の生物を死滅することなしに、人間が地球上で生存していけるようにするシステムを考えたのがこの2人だった。

地球環境が森林伐採やエネルギーの消費拡大へと突き進む中、その影響によって温暖化現象が広まり地球へのダメージが年々大きくなっている。中でも、フロンなどの化学物質の放出は地球を脅かし、オゾン層の破壊は深刻なものだ。その危機感にメスを入れたのがモリソンであり、ホームグレンだった。リサイクルあるいは緑化などという断片的な取り組み方では問題は解決しないと言わんばかりに、彼らは自らの生活を自然環境の中に身を置き、自然と向き合う永続可能な人間の生活を目指していった。

 

私自身それを知ったのが15年前、千駄ヶ谷でアンティーク家具を扱う友人からパーマカルチャーを聞いたのだった。その友人はパーマカルチャーの発祥地オーストラリアまで出かけて行き、パーマカルチャーの実践風景をその目で確かめてきた。帰国すると彼は私に”パーマカルチャーを日本でやってみませんか”と言い寄ってきたのだ。なんの知識もない自分にとって即答することは出来ない、だが興味は湧いた。仕事がらみでオーガニック農業の企画などをしていたことがあり、農業の面白さを少しずつ分かってきた頃だったから。

パーマカルチャーを薦める友人は、他にも数名声を掛け賛同者を募っていった。集まったのは7人、職種はアートディレクター、デザイナー、広告エージェント、フリーの編集者、元役人等々、全く農業とは無縁の連中ばかりが顔を揃えた。手始めは実践からではなく学習から始まった、自然のメカニズムを観察し、それを生活空間の中にどう埋め込んでいくかを週1のペースで学んでいった。

そのテキストは、ビル・モリソン/レニー・ミア・スレイ著の”パーマカルチャー” 、ページを開けるだけで読む気力がなくなるほど難しく、物理や化学の知識も必要で理系に疎い身の上にはかなり気が滅入った。

当時、殆どの人がパーマカルチャーを知っている者はいなかった、またパーマカルチャーの情報もこのテキスト以外何もなかったために、パーマカルチャープロジェクトを立ち上げたとは言え前途多難であったことは確かだった。一月ほど経った辺りから、パーマカルチャーのイロハのイ位は掴めていった、掴めたとは書いたがなにせテキスト自体の翻訳が小難しく理解するのに一苦労である、と言うより翻訳者の力量が疑われるほど内容がアカデミック的で、これでは読者はさじを投げてしまうだろう。

生活デザイン(アートを含めた)としてのパーマカルチャーを念頭に入れ、都会のど真ん中でできるパーマカルチャーを目指していった。無謀にも青山でパーマカルチャーを、と言うのが我々……いや私自身の最終目的だった。地方でパーマカルチャーを立ち上げるなら別段珍しくもない、都会の中心で行うから意味があるのだと私はそう思っていた。最初に行ったのは、土壌作りから始めた。それも言い出しっぺである友人の住むマンションで、そのマンションのベランダは凡そ30畳ほどもあり野菜作りには申し分ないほどの広さだった。都心部では出来そうもない草花や野菜作りもトライしていった、中でも気候温暖でなければ出来にくいレモンなどの栽培にも触手を伸ばし、その先にある都市生活者としてのデザイン、つまりどんな家が適しているかプランを練り上げていった。勿論家も自分たちで作っていく、さらには畑とレストランを一体化したビジネスさえも仮想青山をイメージしながら少しずつプロジェクトを進めていった。7人の能力、才能を開花させながらプロジェクトを進めて行くはずだったが、半年も経つ頃には脱落者が出始めてきた。都会で通用するパーマカルチャーをと意気込みスクラムを組んだはずなのに少しずつ糸がほつれ始める、互いに意見が食い違ってきたのだった。

 

パーマカルチャーのデザインには3つの定義がある。

Care of the Earth(地球への配慮)

土壌、各種の生物、大気、森林、微生物、動物、水などを含む、すべての生物・無生物に対する心配り。

Care of People(人間への配慮)

ガマンしてしまうのではなく人間の欲求も大切にする。また、地域や他国への影響についても考える。

Give away Surplus/Share Resources(余剰物の分配)

余った時間・お金・エネルギーなどを地球と人々に対する配慮という目的の達成に貢献できるように使う。

3つの定義を下に、オーストラリアでは過放牧のため立ち行かなくなった牧場の跡地には街が作られ、エクアドルではパーマカルチャーのデザイナーと先住民族が協力して永続可能な生活を取り戻す運動が始まった。また、ジンバブエでは小学校の授業の中でパーマカルチャーが教えられている、これは14年も前のことである。

 

この遠大で無謀とも言えるプロジェクトは、成果を上げるどころか雲散霧消の結果となってしまった。プロジェクトに集まった全員が、実践というより頭で考えることに重きを置き絵に描いた餅ばかりを追いかけていた。何より都会で自然と一体となって永続可能な生活など、砂漠で針を探すようなものだったのだ。叶えることができなかったパーマカルチャー、残ったのはモリソン著のテキストだけ。だが14年が経過する中、日本各地でパーマカルチャーはかなり普及し始めている。環境破壊や人災事故が進むにつれ、自然と調和した人間の営みがいかに大切か、それを感知したのだろう。地球の資源は無尽蔵ではない、枯渇する日が来ないとは限らない、そのためにも様々な知恵が必要といえる、そのひとつがパーマカルチャー。虫眼鏡で見るのではなく、トンボのような複眼の目が必要なのだ。

 

Bill Mollison

 

 

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