散歩しているとどこからともなく梅の芳しい香りが薫ってくる、甘酸っぱい香りは春の合図だ。
と思った矢先、梅林で有名な庭園には枝に僅かしか残ってなく、地面に盛りを終えた花びらが散っていた。
この小高い丘には紅白の梅が60種以上もあると聞き、その多さに感心してしまう。
この庭園は元々、六郎次という鍛冶屋が住んでいて” 六郎次山”と呼んでいた。
一時期、戦前から戦後に掛けて軍の施設となったが、後に私鉄王と呼ばれたた根津嘉一郎(東武鉄道)が敷地の一部を別荘として購入した。
地元の人はそれに因んで根津山と呼んでいるらしいが、正式名称は羽根木公園となっている。
公園内にはテニスコートや野球場、羽根木プレイパーク(子どもたちが廃材や道具を使っての秘密基地や木登り、穴掘り、昔の子供たちが自由気ままに遊んでいたように、他の公園では真似できない遊びがここにはある)などがあり東京ドーム約4個分を超える敷地である。
梅の見頃を逸してしまったが、園内は春霞が掛かって景色が薄ぼんやりとしていた。
上空にはジェット機のけたたましい音速が地表を唸らせ、地上では子どもたちが奇声を上げ体中泥まみれになって遊具内を飛び回っていた。
そんな喧噪に交じって雀やホオジロそしてメジロが丸裸の梅の枝に止まって互いを牽制していた。
この園の目玉は飛梅だ、菅原道真の飛梅伝説で有名な薄桃色の梅が植樹されている。
その梅は竹垣で保護され、行き交う人が必ず立ち止まり往時を偲んでいた。
春の初めは花の香りが少ない時期、湿気も少なく冷えた空気がよけいにそんな印象を強めるのかひときわ梅が香り立つ。
飛梅の大本は福岡県の太宰府天満宮にある、それも神木として境内に植わっている。
調べるとそのご本尊は千年を超える梅らしく、羽根木公園に咲く梅とは違い白梅だ。
どこがどう違ったのか分からないが、色が違っては飛梅と呼ぶにはふさわしくないだろう。
植物にはまったくの素人、飛梅と銘打つならば同品種を株分けし植えるのが普通だと思うのだが……羽根木公園内の石碑には、紅白一対の梅は、飛梅の分身で梅の木がある大宰府天満宮より寄贈されたと刻まれている。
さて、もうひとつの白梅はどこにいったか。
菅原道真は京の都に居を構えていた頃は、梅を愛でながら歌を詠んだという。
道真の家系は代々学者の家柄、その血筋もあってか詩歌の才能は幼少より優れ人並み外れたものだったらしい。
従って、道真の死後太宰府天満宮に奉られる”学問の神様”というのもあながち嘘ではないだろう。
朝廷内での昇進は誰よりも早く、若干33歳にして最高職の文章博士になったと言うから、周囲の貴族たちはさぞ妬み嫉みで渦巻いていたであろう。
誰もが羨む道真であったが、やがて彼にも不遇の時代が訪れる。
風流・風雅を良しとし、平民とは別格の生活を送っていた菅原道真、さしずめ今なら高級官僚というところか。
だがその甘ったるい生活も長くは続かず、左遷の身となる。その理由は、朝廷内でのいざこざ、つまり政争に負けたことにより太宰府へ流されてしまう。
いつの世もまつりごとの乱れは人の数ほどあり、学問の神様と崇められた道真も権力闘争には勝てなかった。
そして京を発つとき、大切に育てていた梅に向かって詠んだ歌が。
“東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな”という歌だった。
菅原道真の詠んだ歌に応えて、梅は主人を慕って遠く太宰府まで飛んで、根付いたという。
嘘か誠かは別にして、なんと優美に包まれた話しだろうか。
香りは時空を超えるもの、特別な愛情を注がれた梅ならその神秘な香りの力で、あるじのもとへ飛ぶこともできたのかもしれない……。
菅原道真は、太宰府へ流されその地で梅を嗅いだ。
喪家の狗の如く、都を想い出しながら、これより先も太宰府で生きて行かねばならないと覚悟したのだろう。
梅は、清冽な香りの中に丁子を思わせるスパイシーな香りがある、植物にはあるまじき意志の強さというようなものが梅には含まれているらしい。
その梅の香の不思議な強さが道真にも乗りうつり、梅に都の思いを馳せながら漂泊とも思える太宰府での生涯はさぞ辛かったであろう。
梅と言えば、尾形光琳の”紅白梅図屏風”が浮かぶ。
左に白梅、右に紅梅を配し、中央には大蛇のようなくねくねとした川が描かれている。
この構図はシンメトリーとなって男と女の性を意味しているようにも思える、川を境に行く手を阻む絶妙な白銀色と黒色のコントラスト、肉体の隆起を彷彿とさせる図柄だ。
日本画にはあまり関心はないが、この屏風だけは特別な感情が湧いてくる、それは光琳が晩年に描いた作品であることに行きつく。凄い、と言う言葉以外見つからない。光琳は58歳で亡くなっているが、この時代の平均寿命は大凡50歳前後というから、長寿とまでは行かないまでも長生きした範疇にはなるだろう。
枯れてゆく身体に鞭を打ち、最期まで性への執着と憧憬が渾然一体となって筆を振るう様は鬼気迫る思いだ。
尾形光琳と言えば、日本史の教科書にも載っていた”風神雷神”が有名だが、この紅白梅図屏風は異彩を放つ。
それは光琳のある種ボヘミアン的な生き方にあったのだろう、とにかく金の使い方は半端でなかったらしい。
京の呉服商の次男に生まれた光琳は日々遊蕩三昧に明け暮れ、遺産もあっという間に使い果たしてしまったという。
すっからかんになった光琳は、懲りずに弟の尾形乾山にまで金を無心する有り様だった。
貴族趣味とでも言おうか浮き世離れした道楽者、放蕩に放蕩を繰り返すとんでもないふしだらな男だった。
しかし、その放蕩ぶりも影を落とし生活にも事欠くようになっていく、やたらに矜恃だけは強かった光琳も40歳を目前にやっと画業に本腰を入れるようになっていった。
目が覚めたかのように筆を振るう光琳、画家としての天分を思いのままに、あらゆる世界を描き出していった。
屏風絵は言うに及ばず、硯箱・紙・絹・焼き物・板・着物に至るまで手を伸ばしていく。
光琳独自の美は平面に収めきれないほどの迫力と洗練美に満ちあふれ、かの東洋美術史家アーネスト・フェノロサを唸らせた。
絵の構成と装飾は現代の日本画家たちも太刀打ちできないほど斬新で目をくらむほどだ。
放蕩の限りをつくした男の一生は、けっして無駄ではなかったように思える。