アバンゲールとアプレゲールの絵画

 

戦前と戦後の2つの時代、パリを描いた日本人画家”戦後世代の横顔”が目黒美術館で催された。
展示は2部構成になっており、戦前期の1部は”フジタのいる街角”の副題で、藤田嗣治の水彩、版画、絵手紙、陶芸などが紹介されていた。
中でも目を惹いたのは、フランク・シャーマン宛の書簡。

フランク・シャーマンは1945年11月、GHQの出版・印刷担当民政官として来日した。
高校時代に姉に薦められたラフカディオ・ハーンの”知られざる日本の面影”を読んだのがきっかけとなり日本文化の憧れを抱いたと言う。
夢に描いた日本に着任し、日本の芸術文化を知れば知るほどシャーマンは日本にのめり込んでいった。
藤田嗣治との出会いを切望していたシャーマンは、知人を介し藤田と出会うことになる。

藤田とシャーマンの往復書簡、便箋には飛行機や富士山などがスケッチ風に描かれ、その絵はウイットとユーモアに彩られ藤田の新たな一面を垣間見た様な気がした。
戦争画を描いたことで批判を浴び、日本に捨てられたと逃げるようにパリへと向かった藤田に去来するものは日本の風景であったのだろう。
パリで悶々と過ごす中で、シャーマンとの手紙の往復は心の傷を癒やすひとときであったに違いない。
大きな磁石で飛行機を引き寄せようと踏ん張る絵、それは日本にいる君代夫人をパリに引き寄せる絵だった、数多女性との浮き名を流した藤田であっても寂しかったのだろう。
フランスでの名声は誰もが知るところだが、やはり藤田自身に流れる精神は日本人の血だ、シャーマンから日本の情報を送られてくるのが何よりの楽しみであり、それこそが救いでもあった。

またシャーマンは藤田に限らず多くの画家たちとの文化交流をしていくなかで、絵の蒐集にも意欲的に行っていったという。
展示された中に木で作った人形がある、やや荒削りなところもあるが飄々として微笑ましい作品だ。
題して”キス・ミー”、紐を引くと男女が顔を近づける、木にはI Love Youの文字…これは藤田と君代夫人だろうか。

藤田嗣治 I love you

藤田嗣治 I love you

第2部は第2次大戦後の1950〜60年代にスポットを当て、パリで活躍した画家たちが展示されていた。大戦後とはいえ、画家たちから浮かび出る絵は、明るい絵とはほど遠く暗い影が滲んでいたように思う。
そのひとつに、渡仏しミシェル・タピエが唱えたアンフォルメルの絵画運動に参加した今井俊満の”黒い太陽”はまさに悲壮感漂う作品だった。
キャンバスは緑色に覆われ所々に黄味が混じり、中心にはマグマが今にも噴き出しそうな色合いの赤が僅かに顔を覗かせていた。また目を凝らすと幾重にも絵の具を積み重ねた痕跡がある、色重ねは身体の傷を隠すため……それとも再生を意味するのだろうか。アンフォルメル=非定形、大戦によって人間が形を失くすまでに破壊された状態を意味する絵画手法らしいが、だとすれば太陽ではなく身体から流れる血にも思えてくる。
黒い太陽は光輝くことはなく、鬱屈した赤光は消えゆく運命にあるとも言える。
主題は黒い太陽、今井俊満自身の命の翳りが見えてくる、それを今井は察知しキャンバスに投影したのかもしれない。
アプレゲールと言われた戦後派の画家たちの所蔵品の中で、唯一今井俊満の絵だけ強い衝撃を受けた、その衝撃は棘に刺されたようなジリジリした痛みと共に理屈にならない郷愁のようなものがない交ぜとなって荒々しく飛び込んでくる。

黒い太陽

黒い太陽

 

アメリカを経由しパリをめざした藤田嗣治……パリはエコール・ド・パリの旋風が吹き荒れていた。
エコール・ド・パリ、直訳すると”パリ派”20世紀前半フランス、パリに多くの芸術家たちが集まり、互いに自国の文化を背景にもちパリでの自由な表現活動で画家たちはパリでの成功を夢見ていた。
パリには藤田以外にも、モジリアーニやシャガール、ピカソ、キスリング、ヴラマンク、ルソーと世界各地から画家たちは競うようにフランスへやってきた。

藤田に憧れパリを目指した日本人もいれば、逆に彼に反発しながら制作を続けていた画家、また、あえてパリから離れて絵に没頭した画家など、その生き様は実に多種多様だったようだ。
またもちろん彼らの作風もそれぞれに異なっています。
従って、複雑に絡み合うエコール・ド・パリの日本人画家を辿るのは、一筋縄ではいかない。

ヨーロッパならどこでも絵は描けるはず、パリでなければならないのか……パリに集まる理由は至極明解、自由な気風とエスプリという素地があったからだ。
ヨーロッパ絵画の中心はサロン的なアカデミック絵画を基点に始まった、それを覆したのがパリ、そこから新しい表現が始まり、マネやセザンヌ、ピカソという系譜が誕生しどんどん変革していった。
パリの街は魅力的だが生活しにくい街でもある、ではなぜパリに吸い寄せられたのだろう。
昔から言われていることだが、フランスは個人の主張を大事にする、自分の表現するものを尊重する国だ。
個人の個性を尊重する、20世紀初頭は文学も音楽家たちも交わりながら作品が生まれてきた、ビゼー、ドビュッシー、ラヴェル、サティそしてブーレーズと、戦後のパリは芸術のパノラマを大きく繰り広げていった。

それはもしかして、サロンの影響を受けていたことも一因かも知れない、ルイ16世がベルサイユ宮殿に詩人や音楽家たちを集めて教養を高めていく文化がフランスにはあった所以か。
為政者からの芸術から、市民の芸術へと大きく変化していった。いずれにせよ、フランスに自由な気風と風土がなければ芸術家たちはパリに集まることはなかっただろう。

藤田嗣治は日本に於いて不遇な時代と出遭ってしまった、それも自らが蒔いた種である。パリに渡った彼は2度と日本の土を踏むことはなくパリ郊外の地で最期を迎えた。
藤田を慕いパリにやってきた日本の画家たち、パリという幻影を追いかけ道半ばで断念せねばならない者もいた、その幻影は今なお続いている。
前述の画家今井俊満は藤田とは一線を画す画家であったが、フランスと日本を行き来していく中で今井は才能を開花し、アンフォルメルを代表する画家となっていった。
不思議な事に、藤田も今井もフランスでレジオン・ド・ヌール勲章を受賞している。
藤田の描く色彩は”乳白色の肌”と呼ばれたが、一方今井にはそんな呼称はない、強いて言うなら”炎色の肌”と呼びたい。

 

 

関連記事

アーカイブ

ページ上部へ戻る