箒の美学

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春は風の季節だ。
一昨年Y公園で花見に誘われ、花を愛でる柄でもないのにのこのこ出かけて行った。
勾配のある坂道を上っていると、空には赤茶色の砂塵が猛威を振るい地面を突き上げるような勢いで暴れていた。
花見どころじゃない、目も開けていられないほど強風に煽られ進むのがやっとだった。
砂粒は目に入るし、公園内ではブルーシートや紙コップなどが空高く舞い上がっていた。
結局、花見は散開となり砂埃煙る中をすたすたと元の道を戻っていった。
春は本当にやっかいな時季と言える、気温の変化も激しく晴れていたかと思うと一気に空は墨色になり暗雲が立ちこめてくる、名詞で言うなら春は女ということになるか。
少し道に逸れるが、春はドイツ語やフランス語では男性名詞、一方イタリアでは女性名詞とヨーロッパでも意見が分かれる。
人間にも男と女という性があるように、動物にも雄と雌があり、植物にも雄花と雌花がある、つまりヨーロッパに於いては全て男性名詞・女性名詞、あるいは中性名詞に振り分けられる。因みにイタリア語で”プリマヴェーラ”ラテン語から派生した言葉だ。
プリマヴェーラと言えば、フィレンツェのウフィチ美術館に飾られているボッティチェリの作品”プリマヴェーラ”がある。
冬が終わりを告げると、森には西風の神ゼフィロが登場し、花の神フローラが土の中から眠りに目覚める。
フローラは春の花を生み、女神プリマヴェーラへと変身していく、いかにもイタリアらしいお話しである。

 

我が家の目の前にある桜木の天辺は既に花は散り緑色に変貌しつつあった。

その桜木の持ち主は毎年さらさらと散りいく花を柄の短い箒で掃いている、風の強い日には拙宅のバルコニーにも花びらが飛び込んでくる。
持ち主は隣近所への配慮かせっせと毎朝箒で掃いている、腰が曲がっているので掃くには大儀だろう、しかも持ち主の家は坂道に沿っている。
道路は丸の窪みが入った舗装道路、桜がぺたっと窪みに張り付き掃除を一層辛くさせる。

桜木の持ち主と近所の立ち話は面白い、”今年もきれいに咲きましたね”と近所の老婆、方や主は”すいません、散らかしてしまって”と謝りの弁。
一方はきれいだ、その一方は謝罪の弁。こんな光景が日本の至る所で繰り広げられていたのだろう、ほんの少し前までは。

心中穏やかではない2人であっても、こういう日常会話でウソと本音を互いに巧みに使い分けご近所付き合いをしているのだろう。
むろん、持ち家が少なくなれば自ずとこんな会話も消えゆくのみだ。

箒で思い出したことがある、あり姿形は見事なフォルムでうっとりする。
箒にもいろいろ種類があり、庭を掃く竹箒に始まり、座敷箒、土間箒(庭箒の一種)、荒神箒(竈の周囲などの清掃)、手箒、長箒と言った具合に目的別に使われてきた。

ここ数年来、吸引力を武器にイギリスの掃除機が注目を浴び売りに売れている、その勢いはいまだ衰えず人気ぶりは不動のようだ。
日本に掃除機が登場して84年(芝浦製作所、アップライト型)、その間にさまざまな掃除機が登場し、ライフスタイルは和式から洋式へと変貌していった。
その84年と言う歴史の中で殊に座敷箒は邪魔もの扱いとなり住み慣れた部屋から追い出され、掃除機という文明の力が重宝されるようになる。
さすがにそんな時代であっても箒が完全に消えたわけではない、畳が俄然優位に立つ家には座敷箒が健在だ。
座敷箒の保有率は掃除機の普及率と相まって断然少ない、唯一箒という名が消えてないのは学校などで使う竹箒ぐらいだろう。

 

箒で掃くことは、たんに汚れを取り除くことではない。
きれいにするだけでもない。
ふくことによって磨き上げ、庭には掃き目の跡をつけることによって外界の状態を変えることを通して、自己自身を変身させることだ。
掃除のあとの、すがすがしさはここに由来する。
それゆえ箒は魔法の力、化身の力を持つと考えられたのだ。箒を手にしていたころには、人間は、自分自身が罪深く、心の垢や塵から離れられない煩悩の持ち主、不完全な存在であることを自覚していた、という。

古い日本の家屋には、塵を掃き出すために、畳と同じ面に小さな引き戸”掃きだし口”があったという。
塵を汚物とみなす現在人から見れば、汚れを薄めて拡散するだけのこれほどひどい仕掛けはない。
しかし、塵、汚れは人間とその生活が不可避に産み出すものであるとしたら、どうだろう。

侘びの美しさを求めた千利休、侘びとは人がじっと立ち止まってたたずむ意である。
日本人は侘びに静寂のイメージを結びつけた。
利休の美意識は茶室や茶器ばかりではなかった、その意識は庭にも注がれ、利休独自の世界観を構築していったのだ。
茶室をはじめて独立させた利休は、客人たちが路地を(茶室に入る道)で、静かなるひとりの世界に入っていくこと、すなわち俗世界から離れることを作庭のテーマにし、この静けさを妨げないような庭の景観をまず試みたと言われている。
1度全部掃きためて、その上で適当に落葉を点在させているのだ。
そうであれば初めから掃き残しておけば良いものを、とシロウトは考えてしまう。
だがそれではNGとなってしまう、清くないから。利休は自然の中に美を見出し、自然と一体になることを常に考え茶の湯を慈しんだのだと思う。
では、利休が使った箒はどんなものだったのだろう、素材は、あるいは竹の枝か藁だろうか。
箒はもともと鳥の羽毛を使っていたことから羽掃と呼ばれていた。
鳥の羽で掃く箒はさぞ軽かったに違いない、それに比べて掃除機は重い、人の力で掃くものと電気の力を借りるものとでは、また風情も違ってくる訳で。箒と掃除機を比較すること自体やぼというものだ。

座敷箒も竹箒も日本という国が存在する限り、引く手あまたというわけには行かないがなんとか生き残っている。
我が家もその座敷箒で畳を掃くことがある、サッサッと畳と箒の穂先が擦れる音は、なんともいえない和の響きだ。

 

岩手にある南部箒というのを、以前に新聞記事で読んだことがある。
これが実に美しいほど見ほれてしまう代物で、我が家にもひとつ……と思ったらとんでもない価格で驚いてしまった。
10万円という表示、値段で云々は野暮というものだが平民には手の届かない品物だ。
だがその掃除の威力はあのイギリスの掃除機とは一線を画し、普通の箒では掃きだせないカーペットのゴミなどをいとも簡単に掃いてくれるのだという。
その秘密は箒先端の縮れにあると言う、東北地方の冷たい風にさらされ育った箒草だからこそ、その強さと繊細さが出るのだろう。
その南部箒、全て手作業と言うことだ、あの金額も当然と思えてきた。

 

ひとつ面白いエピソードを、京都では箒を逆さにすると来客を追い払う風習があるとか。
なぜ逆さなのかは分からないが、いかにも京都人のイケズらしさを象徴する”サホウ”だろうか。

 

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