クニヨシヤスオが見たアメリカと日本、その狭間のなかで

1930年代、ジョージア・オキーフ、ベン・シャーン、アーサー・ダブ、チャールス・シーラーなどアメリカ現代絵画の画家たちに混じって活躍した日本人画家がいた。国吉康雄…クニヨシヤスオと書いた方が良いのかも知れない。
中学時代、ある画集の中に彼の作品が一枚紹介されていたのを見た。もの哀しげな女が頬杖し英字新聞を眺めているモノクロの絵だ、しかし目は瞑っているようにも思える、絵全体から不穏さと色香が漂ってくるのを感じた、肉体も精神も未発達な私であるのに。その絵がどんな色調を帯びているかはイメージできないが、たまらなく心に沁みたのだった。爾来、国吉の作品が都内で催される毎に彼の絵にもっと近づきたいと足繁く通うようになったのである。

アメリカで35年もの長きに渡り活躍した画家の歴史を、数枚の原稿に埋めることは不可能であるが、彼の痕跡を少しだけ追ってみたい。

1906年、岡山生まれの17歳の国吉少年は工業高校を中退し、父親からもらった200ドルを片手にアメリカへ渡った。画家を目指すために渡米したのではない、暗に好奇心と野望が彼をアメリカへと駆り立てただけだった。2〜3年アメリカで英語を覚え、帰国し翻訳の仕事でもありつければ良い位の気持ちであったらしい。しかし、アメリカへ行ったことが国吉の運命を変えた、いや眠っていた才能が開花したと言うべきだろう。公立学校に通う中で、そこの教師が国吉の画才に気付き、国吉を画家の道へと薦めたのであった。とは言え、その道は決して容易いものではなかった、昼間はビルの清掃、ホテルの雑役、農業労働者などをして生活費を稼ぐのに汲々とし、また、東洋人ということから好奇な目で見られ人種差別は相当なものであったらしい。くたくたになりながら夜学の美術学校で3年間絵と格闘し修行する日々であった。

憂鬱、青ざめた女、官能と倦怠感を併せ持つ、置き去りにされた玩具、ノスタルジア、キャンバスからはそんなモチーフが浮かび上がってくる。

国吉がスポットライトを浴びたのは、1929年ニューヨーク近代美術館の「19人の現存アメリカ画家」展に最年少で出品したことが画家としての地位を築いた第一歩であった。その後画家としての活躍は云うまでもない、その一方で母校であるアート・スチューデントリーグで教鞭を執りながら後進の指導にも当たっていた。第二次世界大戦では、平和を誰よりも唱え、日本とアメリカの架け橋となって奔走したがその希望はついに叶えられなかった。母国でありながら敵国となった日本、そのジレンマはマチエールと共にいつまでも彼の胸の中で生き続けた。戦争を憎み、アメリカで骨を埋めるべく市民権を獲得しようと頑張ったが志し半ばで黄泉へと旅立ってしまった、齢63歳。図らずも国吉の死後、移民法は改正され再び市民権が与えられる、なんという宿命であったろうか。

来年没後60年を迎える、これは推測でしかないがアメリカと日本のどこかで大回顧展が開催されるかも知れない。そんなことを思っていると、知人の映画監督五十嵐匠氏から便りが届いた、国吉康雄の映画を創るというのだ。彼はピューリッツアー賞カメラマン沢田教一の軌跡を追ったドキュメンタリー映画「SAWADA」や、カンボジアで 消息を絶った戦場カメラマン、
一ノ瀬泰造の映画「地雷を踏んだらサヨウナラ」を描いた人物だ。

国吉の映画は既にクランクインしているとのこと、国吉を演じる人物は? 生涯の友となるジュール・パスキン役は…藤田嗣治は登場するのか等々が頭を駆け巡る。正直歯ぎしりをし、地団駄を踏んだ。情けない、こんな感情しか持てない自分が。とは言いつつも、嬉しい気持ちもこみ上げてくる、誰も取り上げなかった国吉を五十嵐監督がメガホンを握る。私は先を越されてしまったが、気持ちを込めてアプローズを送りたい。彼の無垢なまでの想像力で国吉の物語を創り上げてもらいたい、それは決して穏やかな波ではない事は充分承知の上だ。

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