芸術家の横顔 =Artists' profile= エドヴァルド・ムンク ~家族を求めて~

芸術はそんなに遠い存在ではない。

手に入らないような高額で高尚なイメージがあるが、

家でソファーに座って歌を聴きながら本を読む。

それが芸術だ。

建築も家具も音楽も文学(詩)。それが芸術。

外に出れば道を照らす街灯。ここにも芸術がある。

芸術は私らの生活のすぐ傍にある。

私たちが芸術を見つめていない。目を向けていない。

ただ、それだけのことなのだ。

photo by jiroh

 あなたは、大気の叫びを聞いたことがあるだろうか?

 それは晩秋の夕暮れだった。私は携帯電話を左耳に当て、多摩川の河川敷をひたすら歩いていた。興奮気味に話す旧友の言葉を遮りたくなくて、家に帰らず近所を歩き続けたのだ。どうせ家に帰れば、朝から大喧嘩をした兄がいる。それも私を外に留めた理由の一つだ。長い電話が終わり携帯を離すと、耳たぶがジンと熱く感じられた。冷たい風に吹かれながら左に頭を傾け続けたせいか、首がガチガチに凝っていた。左右上下と動かしていると、秋の空が目に入った。そこには長く長く伸びる真紅の雲があった。ドギツイ口紅のように赤い部分とまだ少し残る青い空のせめぎ合い。思わず胸元をぎゅっと押さえた。広がる空をどこまでも赤く染めようとする太陽の力強さと、乾いた昼の大気を押し消そうとする夜の気配に、私は息苦しさを覚えたのだ。

 夕景の大気のうねり。そんな感覚的な情景を捉えた絵画が、ムンク作≪叫び≫である。
 ≪叫び≫は夕刻の赤い空を背景に、身体を捻じり必死で耳を塞ぐようなポーズの男が描かれている。これは誰もが画家と題名を言えるほど有名な作品であるが、そのタイトルが何を表しているかを誤解している人は少なくない。
発狂した男が叫び声を上げ、自らの声を遮るために耳を塞いでいるというのが、その誤解である。そんな誤解をしてしまうのも無理はない。≪叫び≫は途中で改題されたもので、当初は≪絶望≫というタイトルであった。

 ムンクは疲れた体には絶えきれぬほどの壮大な自然の力を、燃えるような大気のうねりを、叫びとして捉えた。男は自らの声ではなく大気の叫びに耳を塞いでいるというのが正しい解釈だと言われている。ムンクは≪叫び≫という同じ作品を、画材を変えて幾度も制作した。オリジナルは油彩画。その後、テンペラ画やパステル画など複数描いている。このことからムンクがどれほどまでに≪叫び≫という題材に心動かされ、執着していたのかが窺える。彼は2人の友人たちと道を歩いていて見た空について、当時の日記にこう書いている。
 
物憂い気分に襲われた時、血のように赤い空を見た。とても疲れていた。そして燃えるような雲が群青色の街の上に、血のように剣のようにかかっていくのを見た。恐怖におののき立ちすくんだ。そして聞いた。大きく果てしない叫びが自然を貫いてゆくのを。

 ムンクの≪叫び≫といえば、オークションで高額落札されたニュースが記憶に新しい。2012年5月、ニューヨーク・サザビーズのオークションに個人蔵だったパステル画の≪叫び≫が出品され、約96億円という史上最高額で落札された。

 私がこのニュースを知って一番初めに考えたことは、あのように暗い画風であっても、「愛を求めて苦しみ彷徨い続けた画家ムンクが、今は皆に愛されているのだな」だった。

ムンクの生い立ちは、決して明るいものではなかった。5歳の時に肺結核で母を亡くし、母親代わりだった姉ソフィーエも同じ結核でムンクが14歳の年に他界した。彼はこの姉の死を幾度も作品に描いた。ムンクは生涯を通して≪病める子≫を約10年おきに全6点も制作している。姉の死を忘れる日は決してなかったのだろう。

 「病気と狂気と死が、私のゆりかごを見守ってくれた黒い天使の群れだった。以来、かれらは私に一生付きまとってきた」(ムンクのノートの一節)

 ムンクの家系は裕福だった。飢餓や貧困といった苦しみとは無縁だったが、明るい家庭には恵まれなかった。父親は元軍医で厳格なカトリックだった。20歳も年下の妻を失ってからは偏屈な性格が悪化し、時に狂ったように子供たちを折檻した。母の死と共に、笑顔が溢れる家庭は消えてしまったのだろう。

 ではムンクにとって父親とは、どんな存在だったのだろうか。幼い頃に自分に暴力をふるった憎むべき相手だったのだろうか。いや、決してそんな希薄な関係ではなかったように私は思う。

1889年、ムンクは父親の死をパリで知った。遠く離れた地で、叔母から届いた手紙を受け取ったムンクは大きなショックを受けた。それは、実父と同時に信仰の”父”を完全に失った瞬間だった。母や姉という大事な人たちを奪った神の存在を、幼かったムンクはどうしても信じることができなかった。そんな彼にとって、神を信じて疑わない父クリスティアンの強い信仰は、神と自分を繋ぐ唯一のものだった。1889年から90年にかけて父の死をテーマにした≪死の寓意-不毛の道≫を描くと、彼はしばらく作品を制作する事が出来なくなってしまった。決して打ち解けることのできなかった父。しかしその存在は確かに大きなものだったのだろう。もしかしたら、自身が思っている以上にかけがいのない存在だったのかもしれない。

私の中で、ムンクのイメージは哀しみに包まれた画家だった。家族の死に苦しみ、愛を求め続けた繊細な男。そんなムンクの初期の作品を私は、愛情を求め不安に怯える孤児のようだと思ってきた。しかし彼の作品は今では、96億円を支払ってでも手にしたいと思わせるほど、人々から求められ愛されている。

ムンクは心を削って絵具に混ぜ、キャンバスに塗りこめていくような画家だ。彼の作品を見るという行為は、死に怯え、愛を求め、自分の弱さに戸惑う、そんな裸の心に触れることになる。だからこそ、作品によっては嫌悪感を抱いたり、不安や恐怖を覚えたりもするだろう。でもどこかでムンクの絵画に出会ったら、彼の心と自分の心を比べてみて欲しい。そして、自らに問いかけて欲しい。

人生に迷ってはいないか?
朝、家族はどんな表情をしていたか?
生きることに不安はないか?
毎日に疲れてはいないか?

今でもムンクの≪叫び≫を見れば、私を圧倒し息苦しくさせたあの秋の夕景を思い出す。そんな風にムンクの作品を通して、自分の記憶や感情、後悔や願望、不安や狂気、そして現実と向き合えるような気がするのだ。そこには自分の気持ちと素直に向き合える時間が待っている。

そういえばあの日、家に帰ると兄は朝の一件なんて忘れていた。「おかえり。寒いけどアイスいる?仕方ないからチョコ残しておいたぞ」と言った兄からは、バニラの甘く柔らかな香りがした。大好物のチョコレートアイスが食べられることに、それ以上に大好きな兄が普段通りだったことに、私は途端に笑顔になった。

藍沢 聖架

エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)の家族の死と病に関わる年表
(1863年12月12日ノルウェー ― 1944年1月23日ノルウェー)

1863年 父クリスチャンと母ラウラの長男としてノルウェーに生まれる。
1864年 首都クリスチャニア(現在のオスロ)に移住する。この地がムンクの故郷となる。
1868年 母ラウラが結核により死去。(享年30歳)
1877年 姉ソフィーエが結核により死去。(享年15歳)
1880年 画家を志す。父の反対を押し切り学校を退学。
1881年 美術工芸学校に入学。オークションで自作を売る。
1886年 初期の代表作≪病める子≫などを制作。
1889年 4月に初個展を開き、10月にパリへ留学。冬、父クリスチャン死去。
1890年 前年リューマチ熱を患い入院し、その影響で画風が暗くなる。
1891年 個展を開催するもスキャンダラスという理由により8日間で閉鎖される。
1893年 代表作≪叫び≫≪吸血鬼≫≪マドンナ≫を制作。
1895年 弟アンドレアスが肺炎のため死去。
1902年 女性とのスキャンダル。拳銃の暴発により左中指の半分を失う。
1908年 アルコール依存症と神経衰弱により入院。明るい作品が多くなる。
1926年 妹ラウラ死去。
1930年 右目の眼底出血により数年間作品制作に影響を及ぼす。
1931年 幼き日に母親代わりだった叔母カレン死去。
1943年 80歳の誕生日後に弾薬庫の爆発で窓ガラスが壊れ、寒さにより気管支炎を患う。
1944年 1月23日死去。全作品をオスロ市に遺贈。

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