「トゥールーズ=ロートレック ~両親の肖像~」

「この赤いバラ2本。あとね、そっちの八重咲きの白いトルコキキョウも1本いれて」
「ご自宅用で?」
「ううん、今日はお見舞い。お友達がバイクで両足を骨折しちゃったらしくてね。きっと病院で年越し。災難すぎるでしょ?」
「あららー、ツライですね。アタシも原付ですけど、朝は道路がキラキラに凍っていて怖いんですよ」
印象派のモネが好きだという花屋の女の子とは、プライベートな話もする仲だ。彼女と話す時間が好きで、部屋に花を絶やすことがなくなった。今日は病院まで1時間ほど電車に乗るので茎は少し短めにして欲しいと頼むと、セロファンで上部まで包みこみ赤いベルベット風のリボンを贅沢に結んでくれた。
「いつも、ありがとうございます。友達さん、お大事に」
「ありがとう。帰りの運転も気を付けてね。じゃあ、行ってきます」
 駅に向かって歩き始めると、周囲が振り返るほど大きな声が背中に聞こえた。
「バラがムーラン・ルージュで、トルコキキョウはセティ・グリーンですよ」
私は彼女から買った花の名前をいつも教わる。いつの頃からか、お互い今週あったことを話し終えると、花と美術の知識を交換するのが習慣になっていた。今回は花の名前を先に聞くべきだった。選んだ花を間違えたかもしれないと少し後悔を覚えた。

ムーラン・ルージュと聞いて、あなたは何を思い浮かべるのだろう?

赤い風車のキャバレーか。それともユアン・マクレガーとニコール・キッドマンの映画か、もっと古いモノクロ映画だろうか。フランスの画家トゥールーズ=ロートレックを連想する人も多いことだろう。
ムーランとはフランス語で風車。ルージュは赤を意味する。大きな赤い風車を屋根に乗せたフランスのキャバレー「ムーラン・ルージュ」は、トゥールーズ=ロートレックをポスター画家として開花させた場所であり、その後も多くの著名人を魅了してきた店である。いくつもの映画の舞台となり、120年以上経った現在でも営業を続けている。

そんなキャバレーがオープンしたのは19世紀末のパリ。店の常連として最も有名な人物の一人にトゥールーズ=ロートレックがいる。彼は夜の世界で働く人々を描いて一躍有名になった。華やかな舞台に立つ美しい女性をモデルに選んでも、彼は決して美しく描かずに敢えて醜さを誇張した。それは人間の内面の弱さや醜さといった本性をさらけ出す試みだった。彼のスキャンダラスでセンセーショナルな表現は、たちまち鑑賞者の心と視線を捉えた。

1864年、トゥールーズ=ロートレックは正統王朝派というフランスで最も古い一族の子として生まれた。伯爵である父は自由奔放な変わり者だったという。1881年に父を描いた≪トゥールーズ=ロートレック伯爵≫を見れば、コーカサスの戦士の衣装にターバンという奇抜な服装からその性格が見て取れる。息子のモデルになるためではなく、伯爵は普段から仮装を好んでいたという。一方、母は貞淑で穏やかな人だった。肖像画が伝える母アデルの姿は、常に白や淡い緑や淡い紫といった色調を用いて描かれ知性と包容力を感じさせる。低い視点から見上げるように馬や馬車に乗って描かれる動的な父の肖像とは対照的に、母の肖像は目線の高さから正面や横顔を静的に描かれた。それぞれの肖像画を見れば、父への憧れと畏れ、母への親しみと信頼が感じられるだろう。

上流階級に生まれた青年は、何故あれほど乱れた人生を送ったのか?

彼は少年時代に両足を骨折して下半身の成長が止まったと言われている。諸説あり本当のところはわからないが、骨折が原因という説よりは遺伝子に起因する先天性の病気だったという説を私は信じている。父親アルフォンスは軍人で、母親アデルとは従兄妹同士だった。一族の血を守るために近親結婚が代々続いていた。それにより遺伝子的な病気が発症したのではないかという見解だ。

乗馬や狩猟、絵を描くことは一族の男たち共通の趣味であり、それらはトゥールーズ=ロートレックも例外ではなかった。しかし14歳で左脚を、15歳で右大腿骨を折ったために乗馬や狩猟は諦めざるを得ず、少年には絵を描くことだけが残された。怪我の療養中からデッサンや水彩画を始め、父親と親しい画家ブランストーのアトリエに通った。その後もレオン・ボナやコルモンのアトリエに通い、そこで出会った友人たちと展覧会を開き、一緒に暮らし、飲み歩いた。トゥールーズ=ロートレックは、冗談ばかりを言う明るいキャラクターだったという。

自画像や写真で見る限り、トゥールーズ=ロートレックは容姿には恵まれていなかった。少年時代に成長を止めた短い足の上に成人男性の上半身があり、濃い髭に覆われた顔が乗っている。「小さな怪物」と呼ばれた彼の身長は150cm程度だったが、容姿に関わらず女性に困る事はなかった。彼の周りにはいつも踊り子や娼婦、画家仲間や飲み友達がいた。その理由の一つは彼の金銭的な魅力だったと考えられている。もしかしたら本人も同様に考えていたのかもしれない。明るいのではなく、暗さを見せられる相手がいなかったのではなかろうか。誰しも一度は、友人たちと居ながら孤独に感じた経験はあるだろう。弱音を吐かず常に明るく振る舞った画家は、生涯を通じてそんな孤独感を抱いていたのかもしれない。

彼と関係を持った女性は数知れないが、恋愛経験はとても少ない。画家が本当の意味で深い関係を築いた相手はマリーという名のモデル(後のシュザンヌ・ヴァラドン)だけだった。21歳の画家は、1つ年下の彼女と短くて深い愛を経験した。彼女との破局後、今まで以上にキャバレーや娼館へ足繁く通った。そうした場所で出会う社会的弱者である女性たちを好んで描くようになっていった。夜の世界は彼を魅了し、彼の作品に人々は魅了された。

画家は若くして成功を収めたがその生涯はあまりに短く、享年36歳だった。晩年は梅毒とアルコール依存症で苦しみ、精神病院に入院をした。そして最期は母の住むマルロメの城館で、両親に見守られて息を引き取ったという。孤独な青年の最期の瞬間、傍に父と母がいたというのは救いだ。

 少年時代、父の期待に応えられなくなった一人息子の気持ちを想像して欲しい。跡継ぎへの落胆や失望を隠しきれない父とは、生涯相容れることはなかった。だが、絵画の道は父が導いてくれた。馬上の父を見上げるように描いた肖像画から、そんな複雑な父と子の関係を感じられるだろうか。

絵画制作を始めた1880年からの10年間、彼は近しい人の肖像画を多く制作している。その中で最も多いのは母アデルであった。それらの作品は、控えめで気品ある知的な彼女の姿を見事に捉えている。アデルは息子の全てを受け入れた。彼もまた心から母を信頼していたことは、それらの作品を見れば容易に窺い知れる。深い信頼で結ばれ「聖女」とまで称した母であるが、その後10年間に彼が描いた踊り子や娼婦たちの作品と比べると、後者の方が親密に描かれているようにも思えてならない。もしかしたら下層階級のモデルたちの方が、弱者である障害を抱えた自分と近しい存在に思えたのかもしれない。

彼の作品に、あなたは何を感じるのだろう。

トゥールーズ=ロートレックに思いを巡らせながら、私は1時間ほど景色の変化を眺めて電車を降りた。信号を待つ間、左手から焼鳥の油と脂が焦げる甘く香ばしい煙が胃袋を刺激する。信号が変わって歩き出したが、右手に下げた花束にまだ後ろめたさを感じている。両足を骨折した友達にムーラン・ルージュという花を贈るっていうのは、悪趣味じゃなかろうか。時折俯いて艶やかな赤い花弁を見ながら、葉を落とした銀杏並木を私はゆっくり進んだ。バラに押されがちな白いトルコキキョウは、歩くたびに控えめにフワフワと優しく揺れた。市立病院の古びた建物に入ったところで、私は思い出した。トゥールーズ=ロートレックがムーラン・ルージュに通ったのはオープンした1889年から数年だが、それから60年以上後にエルビス・プレスリーも毎夜のように通った時期があった。プレスリーの曲に『想い出のバラ』というのがある。どんなメロディーだったか思い出すことができなくて、酷くもどかしい。思い出すことを諦めた途端、なにより早く友人の顔が見たくなった。病院の廊下に立ちこめる消毒液の臭いに鼻孔を刺激され、くしゃみが2つ出る。私は急ぐように明るい日差しの病室へ向かっていった。

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(Henri de Toulouse-Lautrec)の家と家族に関わる略年表
(1864年11月24日フランス アルビ ― 1901年9月9日フランス マルロメ)

1864年 南仏のアルビに生まれる。
1867年 弟リシャールが誕生するも1歳未満で死亡。(近親結婚が原因の可能性)
1868年 性格の不一致により、両親は事実上別居。母と暮らす。
1878年 居間の椅子から立ち上がる際に左脚を骨折。療養中に水彩や素描を描いて過ごす。
1879年 散歩中に溝に落ち右脚を骨折。両脚の成長が止まってしまう。
1881年 父親の紹介でアトリエに通い本格的に絵画を習い始める。
1883年 母がマルロメ城館を購入。
1885年 酒場「ミルリトン」がオープンし、常連になる。キャバレー等に通うようになる。
1886年 アトリエの隣に住んでいたシュザンヌ・ヴァラドンと出会い交際する。
1887年 友人ブールジュと部屋を借りる。転居するも94年に友人が結婚するまで同居。
1888年 シュザンヌ・ヴァラドンと喧嘩。梅毒を患う。
1890年 ムーラン街に豪華な娼館が開店し、通うようになる。
1894年 ムーラン街の娼館に滞在し作品を制作。
1899年 母が突然パリを離れたため、動揺し飲酒が増える。アルコール中毒の発作。
母の手配で精神病院に入院。監視付きで退院するが、再び飲酒の日々に戻る。
1901年 8月に麻痺性の発作を起こし、マルロメに連れて行かれ両親の元で死去。

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