「次なるものへ」

 コム・デ・ギャルソンがパリデビューを果たしたとき、フランスの保守系紙「フィガロ」は、「未来の悪い予兆を感じさせる、ぼろ布のスノビズム」と、コキオロしたことがあった。が、しかし青山・原宿あたりのインディペンデンツデザイナーたちは密かに別なる「ぼろ布のスノビズム」を企んでいる、彼女が原宿の一部屋を借り、生地を仕入れデザインしたように。 彼らもまた「模倣」という伝統に楯突くために………。
 すべての想像は模倣から始まる。そして創造が真の意味の創造であるためには、その創造のための模倣が、創造的模倣でなければならない。
 オーギュスト・ロダンは模写においてさえ「自然を訂正できると思ってはいけない。模写することをおそれるな。見たものだけを作るな。模写は手に働きかける前に心を通るのだ。知らぬところにいつでも独創はいっぱいある」といっている。ロダンは自然をインストールし学びとる模倣でなく、様式や手法や観念を模倣するという意味での模倣を言いたかったのだろう。

 あるイギリス人は、現在純粋なスコットランド英語はボストンにしか残っていないと嘆いているのをテレビで見たことがある。純粋と言えば、故ダイアナ元王妃も純粋なスコットランド人だった。イギリス王室は何百年もの間ドイツ人の血で受け継がれ、ようやくイギリス王室にスコットランドの血を引くものが入ったと喜んでいた矢先の出来事であったが。
また、純粋な日本の伝統的生活を見たければ、ロスアンゼルスかハワイへ行けという冗談がアメリカ辺りであるらしい。それは現代において純粋をそのままの形で維持していくことの困難さを物語っている。厳密に言えば、文明国で完全に純粋な生活様式を維持している国などどこにもないということだ。
 おそらく日本は、その伝統的様式をもっとも純粋な形で芸能や芸術の中に維持し続けてきた数少ない国であるに違いない。たとえ、日本人の技術による火星ロケットが誕生したところで——は存在していることだろう……。 
 

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