「特異な文化と日本人」

昨日から雨がしつこく降っている、銀杏も気温の変化に追随するのは至難の業だ。ついこの前までは汗ばむ季節だったのに、朝ともなると肌に寒さが突き刺さる。バルコニーより眼下を望むと、銀杏の天辺は見事に黄色に変貌し、庭先には黄葉した葉が落穂している。その木の持ち主は、毎年さらさらと散りいく銀杏葉を柄の短い箒で掃いている、風の強い日には拙宅のバルコニーにも葉が飛び込んでくる。持ち主は隣近所への配慮か、せっせと毎朝箒で掃いている、腰が曲がっているので掃くには大儀だろう、しかも持ち主の家は坂道に沿っている。道路は丸の窪みが入った舗装道路、葉がペタっと円形の窪みに張り付き掃除を一層辛くさせる。

リビングから聞こえてくる銀杏の持ち主と近所の立ち話は面白い、「今年もきれいに咲きましたね」と近所の老婆、方や主は「すいません、散らかしてしまって」と謝りの弁。一方はきれいだ、その一方は謝罪の弁。ほんの少し前までは、こんな会話が日本の至る所で繰り広げられていた。
心中穏やかではない二人であっても、こういう日常会話でウソと本音を互いに巧みに使い分けご近所付き合いをしているのかもしれない。むろん、持ち家が少なくなれば自ずとこんな会話も消えゆくのみだ。
箒で思い出したことがある、箒で掃くことは、単に汚れを取り除くことではない。きれいにするだけでもない。掃くことによって磨き上げ、庭には掃き目の跡をつけることによって外界の状態を変えることを通して、自己自身を変身させることだ。掃除のあとの、すがすがしさはここに由来する。それゆえ箒は魔法の力、化身の力を持つと考えられたのだ。
箒を手にしていたころには、人間は、自分自身が罪深く、心の垢や塵から離れられない煩悩の持ち主、不完全な存在であることを自覚していた、という。
古い日本の家屋には、塵を掃き出すために、畳と同じ面に小さな引き戸「掃きだし口」があったという。塵を「汚物」とみなす現在人から見れば、汚れを薄めて拡散するだけのこれほどひどい仕掛けはない。しかし、塵、汚れは人間とその生活が不可避に産み出すものであるとしたら、どうだろう。
また、箸についても言える。日本文化の鍵は二本の箸にある、切る機能の弱い箸は、一方に「切る」文化である包丁料理の文化を育て上げ、剥がす、裂く、ほぐす機能は骨付きの魚料理、つまむ機能は豆腐や煮豆料理を生んだ。
この日々の箸使いが日本の特異な文化と思想を生み、その水準を支えてきた。
「加減」は単に中庸ではない、豆腐を口に運ぶ時の、対象に合わせて強すぎずまた弱すぎず力を微細に加減する絶妙の均衡感覚と対象を傷つけぬ「やさしさ」である。

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