アジアの遺跡に見る時空を超えたアート 8

抗争の愚かさと平和の尊さを後世に伝える廃墟と化した仏教寺院

~ タイ アユタヤ ワット・マハタート 1~

人間は創造と破壊、破壊と創造を繰り返しながら文明や文化を築いてきた。新たな創造を生み出すための破壊もあれば、利害が対立する人間の抗争による破壊もある。宗教的な価値観の違いや、政治経済的な衝突によって、数々の文化遺産が失われている。

現在のタイの首都バンコクから北に約80キロに位置するアユタヤには、その象徴的な寺院が残る。アユタヤは、1350年にラーマーティボーディー1世によって王国が建設されて以来、35代に及ぶ王が417年間にわたってタイ全土を支配したアユタヤ王朝の首都だ。隣国のクメールの文化を吸収しながら、中国やインドの他、遠くはペルシャ、ヨーロッパ諸国と外交関係をもち、平和と繁栄をもたらしていた。日本とも関係が深く、17世紀には江戸幕府と朱印船貿易が行われ、アユタヤには山田長政をはじめ、数多くの日本人が日本人町を作って暮らしていた。

街中を流れるチャオプラヤ川と、その支流のオールド・ロッブリー川、バサック川の水利を活かし、機能的な街づくりが行われた。仏教に篤い信仰心をもつ王家や領民のために、街中に数々の仏教寺院が造営された。

アユタヤ王朝第2代のラーメスアン王、第3代のボロムラーチャー1世が統治する14世紀には、街の中心部にワット・マハタート寺院が建設された。広々とした敷地の中央にはロッブリー様式の大きな仏塔チェディが建立され、これを数々の小さな仏塔が囲み、さらにその回りに回廊が巡らされ、敷地の東西には礼拝堂と仏堂があったと推測されている。中央のチェディは、44メートルの高さで聳え、頂上は黄金に輝いていたと伝わる。

ところが、現在のワット・マハタート寺院には、当時の面影は全く残されていない。1767年に、西からビルマ軍の攻撃を受けたのだ。度重なる攻撃で壊滅的な打撃を受け、破壊され廃墟と化してしまった。現在の敷地内には頭部や胴体が切り落とされた仏像や、崩れ落ちたレンガの壁、礼拝堂の土台が残るのみとなった。襲撃を行ったビルマ軍は、寺院を徹底的に破壊するばかりでなく、仏頭や黄金を自国に持ち帰ったのだ。塔の頂上部付近は植物が生え風化し、抗争による悲惨な歴史の痕跡を見せている。

頭部や胴体を失った仏像がずらりと並ぶ光景は異様だ。でも、重い歴史の爪跡を物語るオブジェのように見ることもできる。無慈悲で暴力的な行為が、様々な新たな形態を生み出している。デザイン的な意図は全くないフォルムが、連続して訪れた人の目に映されていくのだ。

また、廃墟と化した仏塔や礼拝堂は瓦礫のような印象を与えるが、残された部分は落ち着いた色合いの赤レンガで堅固に組まれている。日本の仏教建築はほとんどが木造であるため、レンガによる色彩や組立構造を見ていると、エキゾチックな印象が感ぜられる。今の姿からも創建当初の建築技術と美的感性に思いを馳せることは難しいことではない。

瓦礫と化した仏塔や礼拝堂、体の一部を失った仏像は生々しくもあり、痛々しくもあるが、失った部分を補う過程で、見る者に様々な思いを抱かせる。完全な姿の仏像が整然と並び、仏塔や礼拝堂が青空に向かって聳える姿を想像すると、周囲には安定感と統一感が漲り、訪れた人の信仰心に灯を燈していたに相違ない。完全な姿を見ることができないことは残念なことではあるが、アユタヤのワット・マハタートの廃墟跡は、これからも今の姿のままで、人間同士の抗争の悲惨さや愚かさ、平和の尊さを後世に伝える貴重な遺産として存在することになるだろう。

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