アジアの遺跡に見る時空を超えたアート 18

古代の市街地と港を一直線に繋ぎ、海外からの人と物資が往来したアルカディア通り

~ トルコ エフェソス遺跡 2 ~

日本は徳川幕府が政権を担った江戸時代には鎖国政策をとり、海外からの人と物の流れに厳しい制限を加えた。長崎の出島のみが、海外に開かれた窓としての役割を果たした。そのため、外敵の脅威に晒されることなく平和な世の中が築かれたが、産業や文化の面では海外から大きな遅れをとった。

それが19世紀末の幕末にアメリカから黒船が来航し突然、海外の文明や技術に対する驚異と脅威を同時に感じさせられることとなった。アメリカをはじめ諸外国からの軍事力をちらつかせた要望から、やむなく開国に踏み切った。徳川幕府が15代の歴史に終止符を打った明治時代からは、日本の欧米化が急速に進んだ。日本の各地の港から、海外からの人々や物資、文化が、日本に上陸する。海外との貿易がどんどん加速され、貿易が日本の経済を支え、世界の経済大国に躍り出るまでになった。

横浜や神戸が日本を代表する港町となり、海に沿って大規模な港湾設備を構えている。大型船で港に着いた大量の物資を陸揚げしたり、海外に輸出する貨物を船積みしたりしている。港から陸揚げされた物資は、全国を走り廻る道路網によって各地に運ばれ、私たちの生活を支えている。

海を超えた物資や文化の移動は、古くギリシャやローマ帝国の時代に遡る。トルコの西部でエーゲ海に面するエフェソスは、古代には世界を代表する港湾都市であった。

現在の遺跡の中にもそれを証明する痕跡が、しっかりと残されている。古代の市街地の外れにある野外劇場の袂から海の方向に向かって、幅11メートル、長さ500メートルの石畳の道が残されている。古代ギリシャ時代に作られた道路は、4世紀末に東ローマ帝国テオドシウス王朝の初代皇帝に即位したアルカディウス皇帝の時代に大規模な修復が加えられたため、アルカディア通りと呼ばれるようになった。

土砂崩れなどの地形の変化によって、現在では海からは少し離れた位置に残っているが、東ローマ帝国時代には、港湾施設と市街地を一直線に繋ぎ、海外からの物資を人々の生活の場に運ぶ大動脈の道であった。まっすぐに伸びる道は大きな貨物を運搬するのに便利であったことだろう。

小高い位置にある野外劇場からの眺めは、文字通り絵になる光景だ。道の両側には、ギリシャやローマの神殿を思わせる列柱が建ち並ぶ。各々の列柱にはモザイク状の細やかな装飾が施され、当時の人々の美へのこだわりを垣間見ることができる。この列柱に灯りを燈せば、夜でも日中のような輝きを放ったことだろう。

往時には列柱の間に、様々な物資を保管した倉庫や、商店が軒を連ねていた。通りには重い荷物を積み上げる人々の掛け声や、様々な商品を売買する商人たちの声が響き渡ったことだろう。

古くから国際都市として栄えたエフェソスには、海外から数多くの要人たちが訪れていた。港から従者を従えて、この道を通りエフェソスの市街地に向かった。紀元前33年には、プトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラ7世が、ローマのマルクス・アントニウスを助けるために大きな船団を組んでエフェソスを訪れ、2人でこのアルカディアン通りを歩いたと伝わる。

古代の人々の息吹が偲ばれる遺跡には、毎日大勢の観光客が訪れ、一日中アルカディアン通りは人で溢れる。その光景は、往時を彷彿させる。道を行き交う人々を眺めていると、その人々が古代に生きた人々のように見えてくる。観光客が着ているカラフルな服装が徐々に、古代ローマ人が身に着けた単色一枚布のトガに見えてくる。

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