アメデオ・モディリアーニ ~無責任な横顔~

 無理だと分かっていても、諦めがたい事がある。コレさえ捨ててしまえば、情熱も一緒に忘れられるのだろうか。青年は迷っていた。手にした石の塊は、青年の今の心のように重たかった。
「そんなもの、河に投げてしまえ。ただの石さ。持っているから無理をしてしまう。捨ててしまえ。また体調が良くなったら、作ればいいだろ?」
心の声が悪魔のように囁く。友人たちにも同じように説得された。情熱と諦めの間で、青年の心は大きく揺れた。寒さと飢えに震える極貧生活が長く続き、またもや身体は思うように動かなくなった。季節は暖かさを取り戻しても、体調は相変わらず良くならない。そろそろ答えを出すべきだろう。

1913年4月15日。故郷イタリアのリヴォルノでアメデオ・モディリアーニは、こうして作りかけの石彫を運河に投げ捨てた。

 前回、ディエゴ・リベラとフリーダ・カーロ夫婦について書いたが、モディリアーニが描いたディエゴ・リベラの肖像画をご存じだろうか?媚も遠慮もなく心ゆくまでブサイクに描いた肖像画を、私は好ましく思っている。
2010年にメキシコ独立200年記念として新札が発行された際、500ペソ札の両面に上述の画家夫婦がデザインされた。この紙幣では、少し残念なことに妻よりも夫の方が美化されている。この紙幣と比べて見れば、モディリアーニがどれほど正直な画家なのかが伝わってくるだろう。もしどのような作品かと気になって画像検索していただけるなら、少し愛らしく描かれた1909年の≪ディエゴ・リベラ≫よりも、1914年の極めて不細工な≪ディエゴ・リベラの肖像≫を見て欲しい。

モディリアーニは、モデルを美化して描くタイプの画家ではなかった。一見すれば作中の人物は、みな一様に無表情で抜け殻のような印象を与える。しかし、決してそう単純ではない。高慢な女、紳士的な男、控えめな夫人、意志の強い少女など見事にキャラクターを描き分けているのだ。例えば前述の≪ディエゴ・リベラの肖像≫は、画家として成功する前のディエゴを描いたものではあるが、漲る自信と傲慢さを感じ取ることができる。
名も分からぬ無名の人々や身近な友人たちをモデルにして多くの肖像画を作成したモディリアーニは、独特の表現力で彼らの雰囲気や性格などをキャンバスに閉じ込めることに成功している。

では、簡単に悲劇的な彼の人生を振り返ってみたいと思う。
 モディリアーニは裕福な家庭の4人兄弟の末っ子として誕生するが、同年一家は破産してしまった。11歳で肋膜炎を患い、14歳でアトリエに通い始めるが腸チフスと肺の合併症に悩まされる。翌年、学校を辞めて本格的に絵画の道を選ぶものの、すぐに肋膜炎が再発し、生涯彼を苦しめた結核をこの時に患う。18歳から始めた石彫は、制作意欲はあるものの体力がついて行かず、30歳で諦めることを決断。当時の彼はあまりにも不健康なため兵役すら免除された。その後も体調は悪化し、精力的に活動している時期でもアルコールやドラッグに溺れていた。不摂生と病気に身体は蝕まれ、飢えと貧困に苦しみながら、35年余りで短い生涯を終えることになる。しかし短命ながらも、約350点もの作品を遺しているのは驚きだ。

 病弱で儚い印象を与えるため、往々にしてこの画家の人生はドラマティックに表現されがちだ。彼の人生は映画化され、その度に美形の俳優が起用された。実際にモディリアーニはかなりの美男だった。しかし私は、「生」に対する画家の無責任な一面も忘れてはならないと思う。皆さんは、美談や悲劇に目を逸らされてはいないだろうか。

 健康状態が悪く兵役すら免除となり彫刻も諦めた1914年、モディリアーニはイギリス出身の詩人ベアトリス・ヘイスティングスと出会った。彼らは恋に落ち2年間の同棲生活を送る。若く美しい二人のパリでの生活は、連想されるようなお洒落でロマンティックなものではなく、貧困とトラブルに満ちていた。ほどなく彼女はアルコールに、画家は麻薬に溺れていった。彼女と別れた直後、シモーヌという女性に出会って、交際をスタートする。当時複数の女性と遊んでいたようなので、シモーヌとの関係がどれほど真剣だったのかはわからないが、彼女はすぐに妊娠をした。モディリアーニはその年の12月に若い画学生ジャンヌ・エピュテルヌに出会う。年が明けると、交際相手の妊娠を知りつつモディリアーニは別れを切り出す。お腹の子供の認知も拒否し、まだ19歳のジャンヌと同棲を始めるのだった。翌1918年、体調はますます悪化するもののジャンヌが妊娠、そして出産。彼らは入籍もしていないため、ジャンヌは私生児として娘の出産を届けることとなる。さらに翌年ジャンヌは二人目の子供を妊娠する。ここでやっとモディリアーニは文書で結婚を誓約する。しかし体調は急激に悪化し、翌年1月に結核性髄膜炎でこの世を去ることとなった。

夫の死の二日後、妊娠8か月のジャンヌは実家のアパルトマンの6階から投身自殺をした。二人の死は悲劇的結末を迎える運命的な恋として語られがちだが、果たしてそんな美談で良いのだろうか?モディリアーニは体調が悪くとも酒を止めず、子供を作ってもその責任を負うことなく生きた男だった。ロマンティックな純愛のようにモディリアーニを語る人は多いが、それには主人公があまりにも汚れているように思えてならない。身勝手で無責任な男の横顔も、画家の生き様の一つなのだ。少し醜い人間的な部分も知った上で、私はモディリアーニの率直で飾らない作品に魅力を感じる。あなたは、どうだろう?

2010年6月、パリのオークションに彼の石彫が出品された。1910年~1912年に制作されたと思われるもので、石灰石を彫った高さ65センチほどの縦長の作品だった。制作中の作品を運河に投げ捨てた翌年に彫刻そのものを諦めてしまったため、モディリアーニの石彫は1914年までのものしか存在せず、また数も少ない。なんとその作品は約48億円で落札された。フランスのオークションとしては最高額だったという。
誰にも認められることなく体力を理由に諦めた夢は、100年後に別の結末を迎えた。

アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ
(Amedeo Clemente Modigliani)の女と病にまつわる略年表
(1884年7月12日イタリア リヴォルノ―1920年1月24日フランス パリ)

1884年 4人兄弟の末子として誕生する。同年、一家は破産。
1895年 肋膜炎を患う。
1898年 アトリエに通い始めるが、腸チフス、肺の合併症を患う。
1899年 学校を辞めて、本格的に絵画の勉強に打ち込む。
1900年 肋膜炎の再発。結核の初期症状を引き起こし、きわめて重篤と診断される。
1902年 フィレンツェの裸体画教室に入学し、彫刻作品の制作を始める。
1906年 念願のパリに到着。ピカソやドランといった若き芸術家たちと親しくなる。
1909年 「蜂の巣」でしばらく生活する。ブランクーシに石彫のアドバイスを貰う。
1913年 飢えと寒さと貧窮に苦しみながら年を越すが、大病を患い帰省。彫刻を捨てる。
1914年 彫刻を諦めることを決意。ディエゴ・リベラと短い期間を一緒に暮らす。
     7月にベアトリスに出会い1916年まで喧嘩の絶えない同棲生活を送る。
     8月、極度に不健康なため兵役を免除される。
1916年 ベアトリスと別れ、健康状態はさらに悪化。シモーヌと交際を始める。
     12月に画学生だった18歳のジャンヌと出会う。
1917年 シモーヌと別れる。お腹の子の認知を拒否。ジャンヌと同棲する。
1918年 11月にジャンヌが娘(ジャンヌ)を出産するが私生児として届ける。
1919年 ジャンヌが二人目の子供を妊娠。7月に結婚を誓約。体調はますます悪化。
1920年 1月23日意識不明で病院に運ばれ、翌24日結核性髄膜炎で死去。
     1月26日妊娠8か月のジャンヌは、幼い娘を残して投身自殺。
     当初、夫婦は別々のお墓に埋葬されるが10年後に同じ墓へ移された。
1921年 かつての恋人シモーヌも結核で亡くなった。

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