カミーユ・ピサロ ~画家ピサロは今も生きている~

学生時代、探偵の手伝いをしたことがある。電話での調査を担当していたので尾行や聞込みといった経験はできなかったが、未知の世界を知ることはできた。映画や小説に出てくるようなハードボイルドな依頼は非常に少なく、浮気調査や素行調査がほとんどのようだった。当時驚いたのは、婚約直後の女性をターゲットとした案件が多かったことだ。結婚の約束をした相手が信頼できないのかと不快に思ったが、それらの多くは息子の心配する両親が依頼してくるというパターンだった。可愛い息子が悪い女に騙されていないかと純粋に心配なのかもしれないが、結婚を反対するための材料集めという場合も多いのだろう。その証拠に、素行調査の結果に悪い要素が見つからなくても白ではなくグレーという結果報告を希望されることがあった。そうして学歴や出身などを理由に破談にさせることがあると聞いた。

 

悲しい事に貧富や学歴、宗教や人種の違いを重要視する人は想像以上に多いようだ。小さな差が見つかれば差別意識が生まれる。それはどんな時代もどこの国も同じ。例えば150年前のフランスも、出身や宗教などの差別が色濃い社会だった。しかし、そんな偏見に囚われずに幸せな人生を送った芸術家がいた。

 

ブルゴーニュ地方の葡萄農家に生まれた娘ジュリーは、住込みで使用人として働くことを決めた。まだ21歳だった彼女は、裕福なユダヤ人家庭で料理などを手伝いながら、農家の生活とは異なるブルジョワ階級の生活を垣間見ることとなった。この家の長男は家業を手伝っていたが、三男は親の脛を齧ってパリで暮らしていた。ジュリーは三男を見るまで、傲慢な放蕩息子を想像していたかもしれない。それとも住む世界の違う人種だと興味もなかったかもしれない。しかし二人は出会ってしまった。青年はジュリーを使用人として蔑むどころか、自らがブルジョワな生まれであることを恥じているかのような節があった。身分の異なる二人はたちまち恋に落ち、当然のように彼の両親は猛反対した。

 

「ジュリーと結婚をしようと思います」

「何を言う!彼女は我が家の使用人だ。結婚など断じて許さん」

「でも僕らは愛し合っている。もうすぐ子供が生まれるんだ。もしダメだと言うならば、この家を出て僕らは二人で暮らします」

 

そんなやり取りがあったのだろう。青年は必死で両親の説得を試みたが、宗教も身分も違う結婚を許してもらうことができなかった。ジュリーは使用人の仕事を辞めて彼と家を出た。こうして二人は貧しい同棲生活を送ることになる。ジュリーは花屋の手伝いをして懸命に家計を支えた。

 

ジュリーを愛したこの青年が、印象派の巨匠カミーユ・ピサロである。彼は貿易雑貨店を営むユダヤ人夫婦の三男として誕生した。しかし幼い頃からブルジョワ階級を嫌い、父親の敷いたレールから離れる意思の強さを持っていた。反対する父を説き伏せ画家の道を進み、宗教も身分も異なる女性を生涯の伴侶に選んだ。それでも彼女と正式に結婚をするまでには同棲から10年近くもかかった。交際を反対した父は、とうに亡くなっていた。

この父親が、息子の困難な夢や結婚を反対したのは差別意識だけだったのだろうか。いつの時代にも差別は存在するが、子供の心配をする親心も普遍的な感情である。息子の選ぶ困難な生き方が、心配だったのかもしれない。

 

ピサロは73歳でこの世を去るまで自分の価値観を信じて型に縛られることがなかった。柔軟な感覚と強固な意思は先ほどの結婚のエピソードにも覗えるが、作品や技法からも見て取れる。彼は良い表現に出会うと、恐れることなく技法を変えた。例えば20代の頃に初期の印象派に出会うと、風景画の巨匠カミーユ・コローに教わった古典的な表現をやめて、色彩の美しさや感じるままの印象を率直に表現するスタイルを追求していった。印象派の画家として周囲に師と仰がれるような存在になっても、点描画のスーラやシニャックに出会えば彼らの緻密な技法に魅了され表現を変えた。まだ無名の若い画家たちが試みる点描技法の素晴らしさを素直に認めて、55歳の巨匠は20代の青年たちに教えを乞ったという。そして無名の彼らが展覧会に参加することができるように惜しむことなく尽力した。

 

私はこの真っ直ぐで心優しい画家がとても好きだ。静謐な初期の風景画も、風や日差しの温度を感じさせる印象派の作品も、決して機械的にならない細やかな点描の作品も、どの表現も魅力的なのだ。そして作品と同じくらい彼の人間性に惹かれる。交友関係は広く、マネやモネ、ルノワールやセザンヌやゴッホなど錚々たる画家たちと親しかった。きっと彼は、誰からも好かれる人格者だったのだろう。

 

ジュリーと結婚して7人の子供を授かった。そのうち5人の子供たちが画家の道を選んだが、カミーユ・ピサロは子供たちにも自分の表現を押し付けることをしなかった。周囲の画家たちにも、望まれれば技術を伝えることを惜しまなかったが、他人に何かを強制することは決してなかったという。偏屈な芸術家が多い中で、芸術史上稀にみる好人物だったと言えるだろう。そういえば私は、カミーユ・ピサロという人物を悪く書いた文献を未だ読んだことがない。

 

カミーユ・ピサロが亡くなって100年以上経つが、世界はそんなに変わっていない。今でも人々は差別の目を持ち、新しい価値観や新たな文化を受け入れることに臆病である。ピサロのように優しく強く生きることは、現代でも難しいのだ。

一方、変わらないことが嬉しいこともある。例えば画家ピサロが今も変わらずキャンバスに向かっているという事実だ。イギリスのロンドン郊外にレリア・ピサロという女性の画家が住んでいる。カミーユ・ピサロから息子へ、息子から孫へ、孫からひ孫へと画家ピサロの血は現在まで続いていた。彼女は曽祖父から続く柔らかな印象派の風景画を描いていたが、最近になって抽象絵画へと作風を変えた。全く違う表現に挑戦することは困難だったと思うが、自分の表現を模索して40歳を過ぎても作風を変化させられる女流画家ピサロは、やはり強い意志と柔軟な感覚の持ち主なのだろう。豊かなお髭のピサロお爺さんは1903年にパリで亡くなったが、画家ピサロの心は今も変わらず生きている。

もしピサロの作品を見たら思い出して欲しい。変えるべき事と変えざるべき事を間違わずに素直な瞳で生きていけば、風景はこんなにも美しく目に映るのだと。

ジャコブ・・アブラハム・カミーユ・ピサロ(Jacob-Abraham-Camille Pissarro)

家族にまつわる略年表

(1830年7月10日デンマーク領[現アメリカ領] セント・トーマス島 ― 1903年11月13日フランス パリ)

1830年 貿易雑貨店を営むユダヤ人夫婦の三男として生まれる。

1841年 パリの寄宿学校に6年間通う。

1852年 故郷での裕福な生活やブルジョワ社会との関係を断ち切る為、画家の友人とカラカスへ旅立つ。

1854年 12歳の弟が亡くなり傷心の兄を故郷からしばし離すため、兄に代わって1年ほど家業を手伝う。兄が戻るまで手伝う約束をして、画家の道を父から許してもらった。

1855年 パリに旅立ち画家を志す。

1858年 両親から毎月の生活費を約束される。パリの画塾でモネと知り合う。

1860年 後に妻となるジュリーがピサロ家に住み込みで使用人となる。

1862年 長男リュシアンを身ごもったジュリーは使用人を辞めて同棲を始める。

1965年 父の死。財産の大部分は母と兄が相続した。長女ジャンヌ=ラシェル誕生。

相変わらず生活費を母から毎月貰っていたが、生活は苦しかった。

1869年 パリ西部に移住。近所にはモネとルノワールが住んでいた。

1870年 次女が誕生して間もなく死亡。

1871年 ジュリーと結婚式を挙げ、正式な夫婦になる。次男ジョルジュ=アンリ誕生。

1872年 セザンヌと共に戸外で制作。

1874年 長女が9歳で死去。第一回印象派展が開催される。三男フェリックスが誕生。

1878年 四男リュドヴィク=ロドルフが誕生。

1881年 三女ジャンヌが誕生。

1883年 長男リュシアンをイギリスに語学留学させる。親子は膨大な手紙を交換する。

1884年 五男ポール=エミール誕生。

1885年 長男と共にシニャックやスーラと知り合い点描に心惹かれる。

1888年 点描による目の酷使のためか、この頃より目の疾患に苦しむ。

1890年 ゴッホの面倒を見てくれないかと彼の弟テオに頼まれるが、断ってガシェ医師に任せる。

1893年 リュシアンの娘オロヴィダが誕生。

1897年 三男がロンドンで死去。

1903年 カミーユ・ピサロ死去。享年73歳だった。

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